~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
忘れじの山宿 (2-02)
温泉は三十九度だそうで、肌に柔らかく感じられる。以前は三十七度で浴槽の中に将棋盤を浮かべて、湯治客がのんびり湯に浸りながら将棋をさしていたそうである。その後ボーリングをして。今の温泉に上ったという。
「思わぬ命の洗濯だな」
横渡が浴槽の中に身体を伸ばして言った。浴室の外は、黒々とした闇に包まれている。木立が闇の深さを濃くしているのである。
「こんなことでもないと、まず一生縁のない温泉ですね」
「これも殺された黒人のおかげというわけか」
「横渡さん、この事件ヤマどう思います?」
「どう思うというと?」
「ちまり、殺されたのは外国人でしょう。捜査にもう一つ熱の入らないようなところが感じられるんですが、つまり外国の人間がわざわざ東京へ来て死ななくてもよいだろう。こっちはこっちの事件で手一杯だ。本部が動いているのは、日本の警察の面子メンツだけからのような気がするんです」
「あんたは、どうなんだね?」
横渡が三白眼を向けて聞いた。そんな時の彼の目はひどく意地悪気に見える。もともと今の意見は、横渡が言ったものである。
「私ですか、私は正直いって外国人の一人や二人どこで殺されようと、どうってことはないと思っています。いや、殺された人間は私の場合、あまり重要じゃないんです。ただ殺した奴が憎い。それだけです」
その時湯気ごしに棟居の目に白い炎が燃え上がったように横渡には見えた。あるいは湯気のせいでそのように見えたのかも知れない。
霧積へ出張するに当たって、最初のペアだった山路が「あいつの熱っぽさで山道を引っ張りまわされたんじゃ、とてもいていけない」と、出張を横渡に譲った理由が、今にして思い当たる。
棟居の犯人に向ける憎しみは、異常なものがあった。警察官を志したからには、誰でも犯人に向ける憎しみや怒りはある。だが棟居の場合、それがあたかも自分の肉親を殺傷した犯人に対するごとき個人的感情が入っているように見える。
それが彼をして捜査本部の姿勢を歯がゆく思わせるのだろう。捜査員も外国人が被害者だからといってべつに捜査に手を抜いているわけではない。むしろ外国人だけに、日本人の場合より気を遣っている。だが捜査員の意識下に、黒人ということで心理的な弛緩しかんはあるかも知れない。
棟居の言うように「殺された人間が誰かはあまり重要でなく。殺した犯人が憎い」ということになれば、そんな弛緩の生じる隙はないはずである。
実は、横渡も棟居の熱っぽさに少し辟易へきえきしていた。那須班の面々は、いずれも歴戦のちわ者揃いである。その中でも古参に属する横渡は、山路の次に多くの現場を踏んでいる。刑事としての経験も熱意も申し分ない。その彼が圧倒されるほど棟居の犯人追及は熱っぽく執拗しつようであった。
── この熱意に、うまく抑えがきくようになると、いい刑事になる ──
横渡は、湯に浸りながら思った。それまでは、被疑者の拷問ごうもんや行き過ぎ捜査の危険をおかしやすいのも棟居のような刑事である。
はみ出し刑事は架空の世界だけのことで、捜査が完全に組織化された現在の警察の中には存在し得ない。組織と刑事訴訟法にがんじがらめにされた網目の中で現代の刑事は凶悪犯を追うのである。
横渡は、山路が代わりに自分を棟居に付けたわけがわかった。自分より若い刑事では棟居に対して抑えがきくまい。
風呂にまぎれて忘れていた空腹が胃袋をしめつけた。
「とにかく上ろう、腹がへった」
風呂から戻ると、部屋には膳部ぜんぶの用意が調っていた。待ち構えていたように暖かい飯と汁が運ばれて来た。こいの刺身、鯉こく、エノキダケ、ワラビ、セリ、コゴミ、クレソン、ヤマシイタケ、ヤマウドなどの山菜を主体にした天ぷら、ごまよごしなどがにぎやかに並んでいる。
「豪勢だな」
二人は声をあげた。有名温泉地の旅館で出す、見た目には豪華で多彩だが、少しも誠意の籠っていない既製料理と異なって、いずれも手づくりの土地の味を込めた料理ばかりだった。
「こんな山家やまがで、なにもありませんが、お口に合うかどうか」
女将がひかえめに給仕しるのに、ろくに答えもせずに、二人は食膳に取り付いた。この時だけは、仕事熱心の彼らも、ここへ来た目的を忘れていた。
2021/09/07
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