~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
忘れじの山宿 (3-01)
たっぷりあった料理を一つ残さず平らげて、彼らがようやく人心地を取り戻した時、渡り石を遠慮がちな足音が伝わって、主人が“先代”夫婦を連れて来た。
「やあ、これはわざわざ来ていただいて申し訳ありませんな。こちらから伺おうと思っていましたのに」
日ごろ無愛想な横渡がひどく恐縮した。
「いいえ、年を取りますと、人様と話をするのが楽しくなりましてな」
せてはいるが、まだかくしゃく鑠とした老人が入って来た。その背後に、一まわり小さい老女が影のように従っている。老夫婦を連れて来た主人は、用事があるらしく、母屋の方へ引き返して行った。
四人は炬燵こたつに入って向かい合った。それも電気ではなく、最近珍しい豆炭を使ったものである。
「いま息子から聞きましたがな、ここは、外人さんには縁がありまして、戦前からたくさんの外人さんが見えました。みなさん気に入ってくれまして、毎年かかさず見える方や、長期滞在した方がいます」
初対面の挨拶あいさつが済むと、先代はおもむろに話しはじめた。刑事が最も聞きたいことは、ジョニー・ヘイワードの消息であったが、それに至る前にまず霧積の歴史を聞かされる。
先代の話によると、この温泉が発見されたのは、千年も以前のことで、源頼光の四天王の一人、碓氷貞光うすいさだみつの父親の飼い犬が発見したところから初めは「犬の湯」と呼ばれていたそうである。
湯池場として営業をはじめたのは、明治十三年。十名の発起人によって「株式会社碓氷温泉金湯社」として発足したもので、これが現霧積温泉の前身である。母屋は、その頃に建てられたというから、古格があるはずである。この金湯社の十名の発起人中に、先代の祖父が居て、後に経営権を握った。明治四十四年二代目が承継の折、「霧積温泉金湯館」と、“社名変更”した。霧積の名のいわれはわからない。
「おそらく、霧が積もるような土地だから、そのように名付けたのでしょう」
老人は遠い記憶をまさぐるような目をした。聞き込みに来た刑事によって、はからずも記憶を掻き立てられ、茫々ぼうぼう七十年を超える生涯を顧みているような目であった。
老人は三代目で、現主人は四代目に当たるわけである。この四代にわたる間、さまざまな人がこの地を訪れた。
「勝海舟、幸田露伴も来たと記録にありますな。西条八十先生もお見えになったはずですか、私はお目にかかっておりません。おそらく二代目の頃でしょう。あの詩は、私が偶然先生の詩集の中から見つけて色紙に刷らせてもらったものです」
「それは、いつ頃のことですか?」
話しがようやく核心に入って来た。
「戦前ですな。正確に」いつということは、もう憶えていません。あの詩集も、どこかいしまい忘れてしまって、見つかりません」
「その色紙は今でも使っていますか?」
「いいえ、今はありません。昭和三十年ごろまで使っていましたろうか」
ジョニー・ヘイワードは、戦後間もなく生まれているから、理解の有無は別にしてその色紙を見た可能性はあっやことになる。
「ところで先刻もご主人や女将さんに聞いたのですが、この黒人がここへ訪ねて来た記憶はありませんか? あるいはこの男について何かご記憶はないでしょうか?」
棟居は質問の核心に切り込んだ。
「それが外人さんはたくさん見えましたがなあ、黒人さんは一度も来たことはありませんなあ?」
老人は、棟居の手から写真を受け取ると、老眼鏡ごしに眺めながら首を振った。
「婆さん、あんたにもおぼえがないだろう」
老人は、ひとしきり写真を見つめた後、かたわらにつくねんとうずくまっていた老婆にそれをまわした。老婆はろくに写真を見もせずに、窄んだ口をもぞもぞと動かして、
「おたねさんなら、わしらの知らん事も知ってるかも知れんのう」と独り言のようにつぶやいた。
「そうか、おたねさんなら、直接役の面倒も見ているし、わいらのいなかったときも、ずっとここに居たなあ」
老人が何かを思い出した目をした。
「誰ですか、そのおたねさんというのは?」
初めて引っかかった手応えに棟居は緊張した。
「古い女中で、うちで長いこと働いてくれました。わしらが骨休めに東京見物などに出かけて行った時も、ここに居残って、留守をみてくれた人です。わしらよりも霧積のことは、よく知っています」
「そのおたねさんは、今どこにいるのですか?」
刑事はおたね婆さんに会う必要を感じた。
2021/09/09
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