~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
忘れじの山宿 (3-02)
「湯の沢に住んでいます」
「湯の沢?」
どこかで聞いたような気がした。
「来るときにダムがありましたじゃろう。あれの少し上手かみての村で、もう間もなく水没してしまう所です。そこにいま一人で住んでます」
それは、新館で茶を飲みながら、女将から聞いた地名であった。
「ちょうど今おたねさんの孫さんがうちに手伝いに来ています」
「えっ、お孫さんがここにいるのですか」
「可哀想な娘でしてね、幼い頃両親に死別しておたねさんに育てられたのです。おたねさんが年取って働けなくなってから、しばらくうちで面倒見ていたのですが、静坊が、静枝というのがその娘の名前ですが、中学を出ると代わりに働いて、おたねさんの老後を見ています。おたねさんの面倒はわしらが見るから、高校へ行けと勧めても、お婆ちゃんを一人置いたまま勉強する気になれないと言い張りまして、うちで働いています。いまここへ呼びましょう」
老人が言った時、老女が年に似合わぬ身軽さで立ち上がり、障子しょうじを開けて離れから出て行った。多年連れ添った夫婦の呼吸を見せつけられたようだった。
間もなく老女が十七、八のごむまりのように健康な感じの娘を連れて来た。一緒に女将が新しい茶を持って来た。
「このが静枝ちゃんです。よく働いてくれて、うちではなくてはならな人なんです。いつまでのこんな山深い所へ置いていてはいけないんですけれど」
女将が言い訳をするように茶を入れ換えた。静枝は、もともと赤い頬をさらに染めて、ぴょこんと刑事に前に頭を下げた。
「静枝さんですか、初めまして。実はちょと重要な事件であなたのお婆さんに聞きたいことがあるのですが、お婆さんは、昔のことをよく憶えていますか?」
棟居は娘の緊張を解きほぐすように柔らかく話しかけた。
「ええ、うちのお婆ちゃんは、昔話が好きで、よく古いお客さんの話しなんかします。お客さんの細かいくせまでよく憶えていて、びっくりするんです」
静枝は、自分の愛する祖母のことを言われたので、うれしくなったらしい。
「それはすごい。ところで、お婆案は、お客の中に黒人が居たというようなことを言ってなかったかな」
「黒人?」
「国籍はアメリカ人だがね」
「そう言えば、だいぶ以前に黒い兵隊さんの親子連れが来たというようなことを言ってたわ」
「黒い兵隊の親子連れ!」
二人の刑事は、思わず声を弾ませた。
「その黒人は親子連れだったと言ったんだね」
棟居が改めて問い直した。
「ええ、そのように聞いたと思いますけれど。でもだいぶ前に一度聞いただけだから、よく憶えていません」
「お婆ちゃんに会いたいんだが」
「ちょうどよかったわ。明日は静枝ちゃんのお休みの日で、湯の沢へ行きます。一緒に行ったらよろしいわ」
女将が静枝と刑事の顔を交互に見て笑った。霧積で聞くべきことは、すべて聞いた。収穫はあった。刑事たちは、明日が待ちきれない思いだった。
四人を送って離れの外へ出ると、降りこぼれるばかりの星空が頭上にあった。二人の刑事がこんな夜空を仰ぐのは、久しぶりだった。一日の捜査を終えて家路につくのは、いつも遅い時間だが、都会の夜空はボケたようで、貧弱な星が、わびし気な光を息も絶えだえに送って来る。
ところがここの星空はどうだ。限られた空間にあまりに多すぎる星を一挙に投げ込まれたために星々がぶつかり合って鏘然しょうぜんたる光を放っている。
それは金属のようにぎすまされた硬い光であり、一つ一つが凶器のように先端が尖って突き刺さって来る。暖かみのまったくない輝きであった。
星空の下に立った二人を見て、無数の星屑は、飢えた獣の群が獲物を見つけて一斉にざわめきたったように感じられた。
「なんだか、恐いような星空だな」
横渡が首をすくめて、追い立てられるように離れに中へ戻った。棟居も残されるのを恐れるように慌てて後を追った。
2021/09/10
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