~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
忘れじの山宿 (4-01)
翌日も秋晴れの快晴がつづいた。宿の前がなんとなく騒々しいので、部屋の窓からのぞくと、ハイキング姿の男女が、いましも出発してゆくところであった。
「昨夜の泊り客は、我々だけじゃなかったようですね」
「けっこう泊まっているんだな。みんな楽し気にしてやがる」
「なんでもここからへそまがり山というのを越えて浅間高原の方へ出るハイキングコースがあるそうですよ」
「それはへそまがりじゃなくて鼻曲山というんですよ」
背後に笑いを含んだ若い女の声がして、昨日の静枝という娘が朝食の膳部ぜんぶを運んで来た。
「ああ静枝さんか」
「よくおやすみになれましたか?」
「ああ、久しぶりにぐっすり眠ったよ。腹がへって目がさめたんだ」
「そう言われるお客さんが多いんですよ」
「おれもそうだよ、朝めしなんて久しく食いたいと思ったこともなかった。空気がいいと、腹のヘリ方までちがうんだな」
横渡が膳部を覗き込みながら、口をはさんだ。
「ところで静枝さんは、何時ごろ出かけるつもりだね?」
「お客さん次第ですよ。お客さんの支度が出来たら、すぐにも出かけられます」
「それじゃあ、ゆっくり飯なんか食っていたら悪いな。せっかく貴重な休日だからね」
横渡が慌てて飯をかきこもうとすると、
「いいんです。どうせ私、お給仕いたしますからゆっくり召し上がって下さい」
と二人のかたわらにすわった。
山の幸をたっぷり盛った食事を朝夕付けて一拍料金が三千円であった。二人は出発時に勘定を払い、その安さに驚いた。
宿の老「いいんです。どうせ私、お給仕いたしますからゆっくり召し上がって下さい」
山の夫婦が見送ってくれた。刑事たちが峠の向こう側に見えなくなるまで寄り添って見送ってくれる老いた二人の姿は、次第に遠ざかり、やがて谷間の底に二つの黒い影となり、一つの点となって、古い建物の一部のようになってしまった。
「まだ見送ってくれています」
棟居があきれたように言った。
「あの二人は、いつもああしてお客さんを見送るんですよ」
静枝が言った。
「ああやってこの谷間の宿で、二人寄り添って生きているんだな」
横渡が感慨深げに言った。
「美しく穏やかな人生ですね」
「表面は、そういう風に見えても、ここまで辿たどり着くには、あの人たちはあの人たちなりの苦しい航海があったかも知れないよ」
横渡が言った時、峠に着いた。ここを越えると旧館は視野から消える。
「さようなら」棟居は、どうせ聞こえないと思って、手だけ振ると、別れの言葉を小さく口の中でつぶやいた。静枝が先に立って峠の向こう側へ足を踏みだした。今度は新館が視野に入って来る。
「また来たいな」
「そうですね」
二人はささやき合ったが、一時の感傷であり再びここへ戻って来ないことも知っていた。
帰路は、新館から、来た道をまたマイクロバスで引き返す。運転手も昨日と同じであった。昨日、乗り合わせた中年の男がまた一緒に乗って来た。新館に一泊した様子である。帰りしなに女将のくれたパンフレッドに、「当館は一年中いつも空いているようなものです」と刷り込まれてあるのも、ユニークである。
「他人事だけど、こんなことでやっていけるのかね?」
横渡が、余計なことを心配した。
「きっと儲けようという気はないんでしょう。連休やシーズンの客で一年をたせちゃうんでしょうね」
パンフレットにも春秋の連休、真夏の一時期、正月休みは賑わうと書いてある。だが「満員」になるとは言っていない。
「ああいう宿は、いつまでの大切だとっておきたいな」
「そうですね」
二人はうなずき合った。
2021/09/10
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