~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
忘れじの山宿 (4-02)
おたね婆さんは湯の沢に残った一軒家に住んでいる。町が用意した新しい家へ移るように勧告されているが、出来るだけ孫の近くに居たいと言い張って、いまだに廃屋同様の家で頑張っている。
おたね婆さんはそこで静枝が休日に帰って来るのを唯一の楽しみにして老後を過ごしているのだ。
静枝の居ない時の寂しさにさえ耐えれば、生活の方は「霧積」で面倒を見ているので、不自由はないらしい。
静枝がよくできた娘で、中学を卒業した時、級友たちが進学したり、高崎や東京へ就職して郷里を離れて行くのに惑わされず、祖母を残したくないと、地元の霧積温泉で働いている。
青春の夢にはち切れそうな身を、祖母孝行から、寂しい山中に閉じ込めて耐えている。
「あんな山の中に毎日いて、寂しくない?」
棟居がたずねると、ややはにかんだように目を上げて、
「東京なんかに勤めたお友達の話を聞くと、いいことずくめのようだけど、帰って来る度にみんな顔色が悪くなって、せているわ。同じ年輩のお客さんの話を聞くと、お給料だって霧積に比べて決してよくないんだよ。みんな体をすりへらして、無理しながらいい恰好しているみたい。私、山の方が好きなんよ、気色も空気もいいし、旦那だんなさんも奥さんもいい人だし、むずかしい人間関係がないもの。それになによりも、おばあちゃんのすぐそばにいられるもんね」
静枝の口調にはだいぶ親しみが現れている。
「君の考えは正しいよ。東京なんかちっともいいことない。特に君のような娘さんの住むところじゃないよ」
横渡がさとすように横から言った。
「時々、バイトの学生さんが来るけれど、東京の人って油断ならないね」
「どういう風に油断ならないんだね?」
「すぐ二人だけで会おうって言うのよ。それに理屈ばかり言って、いちばん働かないのが、東京のバイト学生ね」
静枝は鋭く観察をしていた。
マイクロバスは山道を下り、しだいに高度をさげてきた。切り立った崖を抜けて、風景が浅く開いてきた。
「おばあちゃん、私が帰る日はいつもダムの所まで迎えに来てくれるんです」
静枝がうれしそうに頬を火照ほてらせて言った。ダムが視野に入って来た。堰堤えんていとその直下にある水門の付近に大勢の人間が群がっている。堰堤にいる人間は、みな一様に底の方をのぞいている。
「何かあったらしいな」
運転手が、車を減速しながらつぶやいた。
「事故かしら?」
静枝が不安気にまゆを寄せた」
「人がちたようですね」
「ダムの上から墜ちたのでは、まず助からないな」
二人の刑事は顔を見合わせた。
「おばちゃんがいないわ」
静枝がガムの岸よりの基部の方を見ながら、不安気に顔をくもらせた。彼女の祖母は、いつもこのあたりに迎えに出ているのである。
「きっと事故を見に行ってるんだろう」
棟居は、彼女の不安をなだめるよりも、自分たちの胸にきざしつつある不吉な予感を抑えるために言った。バスが堤体の端へ着いた。
2021/09/11
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