~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
忘れじの山宿 (4-03)
「いったい、誰が落ちたのかね?」
運転手が、事故の気配に集まっていた人々に声をかけた。彼らは岸の上に固まって。事故のあった方を見守っていた。
「なんでもこの辺に住んでいる年寄りが落ちたそうだよ」
その中の一人が答えた。
「おばあちゃんだったら、どうしよう」
静枝が今にも泣きだしそうな顔になった。
「そんなことがあるはずがねえ。なにも年寄りはおたね婆さんだけじゃねよ。さあ、つまらねえ心配はしねえで、早く家へ帰ってやんな」
運転手が、土産物の包みを静枝に渡しながら励ました。
「そうだよ、きっと何かの用事があって、今朝は迎えに出られなかったんだ。そんな心配をうると、おばあちゃんきっと怒るぞ」
棟居も一緒になって励ました。
「駅長さん、ちょっと様子を見て来ていいですかま?」
しかし運転手は、すぐに車を動かさず、新館から乗った客にたずねた。野次馬的興味からではなく、やはり気になったのであろう。
「いいともツネさん、今日はまだ非番だからな。誰が落っこちたのか、気になるから、わしもちょっと覗いてみるべえ」
駅長と呼ばれた中年の客も一緒に車から降りて来た。彼も「碓氷峠で食っている」国鉄関係者らいい。彼らはこの近くに「年寄り」がそう何人も居ないのを知っているのか。静枝に付き添うような形で、ついてきた。ダムから階段への降り口に近づくと、ヘルメットをかぶった工事人らしい男が、
「ここから先は立ち入り禁止だ」と一同を制止した。
「いったい誰が落ちたのかね?」
ツネさんが代表して聞いた。
「知らないよ、さあ用のない人間は帰った、帰った」
工事人は、犬でも追い立てるように手を振った。
「この娘さんは湯の沢の人で、身寄りの婆さんがそこに住んでるんだ」
「湯の沢だって!」
工事人の顔色が変わった。彼の顔色が変わったということは、不吉な前兆である。
「どうしたい? 湯の沢に何かあったんか」
「身寄りの婆さんが住んでるんだって?」
「そうだよ、まさか・・・」
ツネさんも表情を硬くした。静枝は、今にも倒れそうに、蒼白そうはくになっている。いや棟居が支えてやっていなければ、本当に倒れてしまったかも知れない。
「とにかく現場へ行ってくれ。おれはただここで張り番しているだけなんだから」
工事人は言って、ダムの底の方を指した。
「私、恐い!」
静枝は、その場に立ちすくんでしまった。墜落者を確認するのが、恐ろしくなったのである。
「静坊、なにを言うんだ? 婆さんにはカンケねえ、早く家へ行ってやるんだ」
ツネさんが声を励ました。どのみち、この階段を降りなければ、湯の沢へは行けないのである。茶褐色の谷底には、数件の廃屋と、立ち枯れた樹林と、せほそった水流が見える。その廃屋の一軒におたね婆さんは住んでいるはずであった。
工事人は言葉をにごしたが、まだ彼らは完全に絶望したわけではなかった。老人のことだから、その日身体の調子がかんばしくなくて家に臥せっている場合も考えられる。
この急な階段の上下は、若く健康な人間でも、億劫おっくうになる。
ダムの下へ降り立つと、騒ぎの気配は、いっそう迫った。人は、やや右岸寄りの堰堤の上から落ちた様子である。墜落現場は、人垣が取り巻いていた。警官の姿も見えた。
「だれが落ちたのかね?」
ツネさんが人垣の後ろから覗き込もうとすると、
「おい、なったたたちは、だれだ?」
とがった声を浴びせかけられた。現場を保存していた警察の人間らしい。
「霧積の者だがね、湯の沢の人が落ちたと聞いたもんで」
「誰がここへ入っていいと言った?」
「うちで働いているこの0娘が、湯の沢の人間なんで、ちょと心配になってね」
「湯の沢の?」
「ああ、これは駅長さん」
警官の中に、“駅長さん”を知っている者がいた様子である。彼らの態度が変わった。
中年の客は、この辺ではかなりの名士らしい。
人垣の一部が解かれて、彼らは事故現場の真ん前に出た。高さ六十七メートルのコンクリートの提体が眼前に垂直にそそり立っている。そこは右岸固定部寄りの、ちょうど閘門こうもん越流部右端の真下のあたる。
2021/09/12
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