~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
忘れじの山宿 (4-04)
遺体は提体基部の岩盤に無造作にむしろをかけられて横たわっていた。だが周辺の岩や土に、むしろおおいきれない血痕けっこんや肉片が飛び散り、検屍の一行が拾い集めている。
警官の一人がむしろを少しまくった。そこに無惨に破砕された肉塊があった。一見しただけでは、人間とは思えないほどの傷み方である。
「おばあちゃん!」
遺体をじっと見つめていら静枝が、悲鳴をあげてむしろの抱きついた。
「やっぱり!」
「この娘さんの身寄りだったか」
集まっていた人間の口からいっせいに痛まし気な嘆声がもれた。
「おばちゃん、どうしてこんなに、こんあになっちゃったの? ひどいよ、ひどいよう、私が今日帰って来ることはわかっているのに、どうして?」
静枝は号泣した。周囲の人々もしばらくは彼女の悲歎のほとぼしるままにまかせる以外になかた。ひとしきり泣かせた後でなければ、どんなに慰めを言っても聞こえないだろう。
「いったいどうして落ちたんですか?」
駅長がたずねた。
「いやあ、それが我々にもよくわからんのですよ。ダムの両側には手すりがあって、よほど身を乗り出すか、後ろから押されでもしなければ、簡単に落ちるものじゃないのですかがなあ」
警部補の階級章をつけた制服の警官が答えた。ふつう検視は検事か警部以上が当たることになっているが、地方の警察では巡査部長以上が代行することもある。
「後ろから押される?」
横渡が目を光らせて、
「そんな疑いでもあるのですか?」
とたずねた。
「まさか、こんな年寄りにそんなひどいことをする人間はいないでしょう。きっと老人の足がもつれたか、高い所から下を見て、目がくらんだかしたのですよ。まだダムは工事中なので、堰堤の上は立ち入る禁止にしているんですが、監視をしているわけじゃない。この辺に刑事責任の有無が問われる程度でしょうな。ところで、あなたはどなたですか」
しゃべってしまった後で、警部補は横渡と棟居に土地の者ではない匂いを嗅ぎ付けたらしい。駅長と一緒に来たので、この辺の人間かとつい気を許したのである。警部補の目に警戒の色が浮かんだ。
「これはどうも申し遅れまして。我々は警視庁から参りました。こちらは捜査一課の横渡刑事、私は麹町こうじまち署の棟居と申します」
棟居が身分を明らかにした。
「警視庁から・・・これはこれはご苦労さまです。私は松井田まついだ署の渋江といいます」
警部補は姿勢を改めて、自己紹介をしてから、
「しかし警視庁の方が、何の事件でこんな山ん中へ?」
と不審の色をいた。
「実は私どもも、そのダムから落ちたお婆さんに用事がありましてね」
「えっ、このホトケに?! すると、何か事件に関係があるのですか」
渋江の面が引き締まった。フットボールのような卵形の顔、栄養が行きわたっててかちぇかと光っている中年の警部補である。階級は二人の刑事の方が下であるが、中央の捜査一課から来たと聞いて、いっぺんに緊張した様子である。
「まだ断定出来ませんが、この婆さんが我々の手がけている事件について重大な事を知っていたかも知れないのです」
「重大なことを・・・その婆さんがダムから落ちて死んだとなると・・・」
渋江は、事態の容易ならないのをようやく悟った様子だった。
「それで、お婆さんがダムから落ちた前後の模様を出来るだけけ詳しくお聞きしたいのですが」
棟居は、祖母の死体に取りすがって泣き伏している静枝を横目にしながら、冷酷に自分の用件を推し進めた。可哀想だとは思ったが、すでに彼の関心は哀れなその娘から離れていた。それに彼女の悲歎はぢんな慰めも救えないのだ。
2021/09/14
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