~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
道具の叛逆 (1-01)
「今夜は、久しぶりに君の部屋へ行っていいか」
半月ぶりに夫婦差し向かいの夕食の後で、郡陽平は妻を誘った。
「あら、本気でおっしゃるの? 雪でも降らないかしら」
恭子は、大仰おおぎょうに言って外を見るしぐさをした。
「それとも、君は迷惑かな」
「ふふ、迷惑のはずがないじゃないの。馬鹿ねえ」とうすく頬を染めて夫を軽く打つ振りをした恭子には、年齢をまったく感じさせないつやっぽさがある。
「たまには掃除をしておかないと、蜘蛛くもの巣が張るからな。もっとも本当に張ってるかどうか、目で確かめるわけにはいかんがね」
陽平が夫婦だけにわかる淫靡いんびな笑いを含むと、
とげのある言い方をするのね。私もあんまり長い間ご無沙汰なので、感覚をわすれちゃったわよ」
「なにせ、天下の家庭問題評論家、八杉恭子先生だからな。夫のおれもそう簡単に寝室を共にしてもらえないというわけだ」
「変な言い方をしないで、私、評論家になってから一度でもあなたのもとめを拒んだことがあって? 仕事の都合ですれ違いになることがあっても、私、出来るだけあなたの都合に合わせているつもりよ、それに評論家になったのも、あなたの納得のうえじゃない」
「まあそうむきになるなよ。君のように美しく、有名な評論家を妻にしている優越感から言っただけだ。世の中の男たちは、君の裸身の想像図に胸をこがし、せいぜい想像の中で君を犯して、自分を慰めているんだろう。その君を、おれは妻として思うがままに犯し、むさぼることが出来る。男冥利みょうりに尽きるとは、まさにこれだな」
「あなたの買いかぶりよ。私はただの人妻よ。評論家の衣裳を脱げば、普通の家庭の主婦にすぎないわ。それよりあなたこそ民友党の若き旗手として、次期政権をめぐる台風の目とされている人よ。そんな人が妻一人で満足出来ないのは仕方がないとしても、あなたを独占出来ないのは悔しいわ」
「妻として独占しているじゃないか」
「いいのよ、わかっているんだから。私、野暮やぼは言わないわ。あなたの若さと元気で妻と一か月もナニもなくて平気でいられるはずがないもの」
「おいおい変な言いがかりをつけないでくれよ」
陽平は、分厚い掌でつるりと顔をでた。それは妻に表情の変化を悟られまいとしてやったしぐさに見えた。
「せっかくのお声がかりですものね。せめて今夜だけでも独占させていただくわ。すぐ支度してまいります」
恭子は食卓から立ち上がった。食後の片付けは、住み込みのお手伝いがしてくれる。
夫に抱かれるための寝化粧を施すのが、今夜の彼女の仕事である。そのことだけでも、普通の家庭の主婦とは異なっていた。
夫の好みそうな寝衣お選びながら、彼と寝室を共にするのは何日ぶりかと恭子は考えた。夫婦の間で、寝室を別にする習慣は、若い頃からつくられていた。
陽平と結婚したのは、二十三歳のときである。陽平は三十歳で、すでに、かなり大きな鉄工所を経営していた。その四年後には、ある財界の大物のバックを得て衆院選に初出馬し、政界入りをした。政治家として忙しくなるにつれて、睡眠時間が切りつめられ、限られた時間を最も有効に使うために、夫婦の寝室を別にした。
どちらか欲しい方が、相手の部屋を訪れることにしたのだが、このような約束が、一方的に男の都合に合せられるのは、むを得ない。
それでも当初は、夫の訪問が毎夜のようにあり、そのまま朝まで妻の部屋で眠ってしまう。何のために部屋をけたのかわからないようだったが、陽平が政治家として次第に重みを増して来るにつれて、訪問回数が減って来た。また外に女をつくったにおいも感じられた。
恭子は、初めのうちはずいぶん寂しい思いもしたものだが、恭平と、陽子(長女)が生まれ、はからずも家庭問題評論家として、世の脚光を浴びるようになったために、忙しい夫を持った寂しさを忘れてしまった。むしろ忙しくなった妻にとって、夫の多忙は勿怪もっけの幸いであった。
夫婦のすれちがいが多くなり、たまに家に居合わせることがあっても、家に持ち込んだそれぞれの仕事で忙しく、営みの回数は極端に減った。それでも夫婦仲が冷えたわけではない。今夜のようにどCじらかの(ほとんど夫)都合がよいときに誘いがかかる。
2021/09/14
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