~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
道具の叛逆 (2-02)
どうして賤しいんだ。最初にそれをしたのはおふくろなんだぜ。お前だって知ってるだろう。おふくろを有名にしたベストセラーは、おれの日記を土台にしたものななんだ。おふくろはそれを盗み読みしてやがったんだ。俺に悟られないように一年も盗み読みしつづけて、それを俺に内緒で本に書いてしまいやがった。あの本は、俺の日記のコピーのようなもんだ。おふくろはおかげで有名になった。しかし俺の秘密は、全国に知られてしまった。俺は誰も見ている者がないと思っていた便所の中の自分の姿を、テレビに映し出されたような気がしたよ。俺はその時、あの女の正体を見届けたんだ。全国母親のアイドル、慈愛深き母、夫に優しく仕える妻、聡明そうめいで美しく、上流の香気と気品を身にまとい、しかもかつ、どこの子供にも“母”を感じさせる庶民的な近親感、それが一皮けば、子供を道具にして有名になりたい、自己顕示けんじ欲の化物のような女なんだ。有名になる前だっておやじのかげに隠れるような演技をしながら、おやじへの協力という形でいつも自分を出すようにしていた。おまえだって日記や手紙を盗み読まれているかも知れねえんだぞ」
兄に言われて、陽子も思い当たるふしがないでもなかった。彼女は日記をつける習慣はないが、母から何度もそれをつけるようにすすめられていた。
「日記というものは、習慣がついてしまえばそんあに苦しいことではないのよ。むしろ、一日でもつけないと、気がすまなくなるくらいよ。繰り返しのきかない自分の人生の記録ですもの、誰でも日記をつけるべきなのよ」としきりに説いたのも、盗み読もうという下心があったからだろうか?。
また陽子には、手紙を下書きする癖がある。後で、その下書きが必要になって、屑籠を捜したが、たしかにそこへ捨てたはずの下書きが見つからなかったことが何度かあった。お手伝いに聞いてもみたが、まだごみを捨てる前であった。あれも母が持って行ったのではあるまいか?。
そう言えば、その後の恭子の著書の中に、陽子の好き好んで使う言いまわしや語句があって、はっとさせられた経験があった。
── でも、まさか ──
よ半信半疑の陽子に、恭平は、
「とにかくお前も注意するにこしたことはないよ。恋人でもいたら、おふくろに十代の性だなんて本の素材にされないように十分に用心するこったな。家の中にスパイが居ると思っていれば間違いねえよ。とのかく俺は、これ以上、自分をスパイされるのに耐えられなくなったんだ。おふくろは大事な素材が家出をしようとしたので泡食ったが、俺たちは取引したのさ」
「取り引き?」
「そうさ、俺はこれからもおふくろに日記を見せてやることにしたんだよ。それを言った時のおふくろの顔ったらなかったな。結局おふくろは俺との取り引きを受け入れた。その方がおふくろにとっても都合がよかった。俺の日記はおふくろには絶対に書けねえからな。そのうち俺は自分で日記を書くのが面倒臭くなった。どうせ嘘っぱちの日記なら誰が書いたって同じさ。だから、俺は友達の文章の上手い奴に俺の日記を代筆させるようになった。友達はいいアルバイトだって喜んでいるよ。おかげで俺は、指一本動かさずにたんまりと養育費を払ってもらえる。しかし、おふくろは身近に観察する素材を一つ失った。残ったのはお前だけだ。おふくろの目はお前だけに集まるよ。お前もなるべく早く家を出た方がいいぞ」
こうして恭平は出て行ったのである。その時の兄の言葉は、陽子にかなりのショックを与えたが、時間の経過と共に忘れていた。それが突然、今夜、両親の会話を盗み聴いてしまったのである。
盗聴する意志はなかった。だが二人の会話は、高感度の盗聴機にとらえられて、耳に入り込んで来た。全身が硬直して耳も押さえられなかった。
会話に先行する夫婦の行為の淫靡いんびな気配は、親の権威を地にとし、潔癖な少女のガラスような心を粉砕するものであったが、後に続いた両親の言葉が、陽子にとどめを刺した。それはまったく救いのない決定的な言葉だった。
兄の言葉は、本当だった。父母は自分のことを「商売の道具」と言ったのだ。
── 私は道具でしかなかったのか ──
涙のしたたるままに任せた後に、やがて涙も乾いた。長い放心が来た。放心している間に、彼女の心の中から剥落はくらくしていくものがあった。そこに空いたうつろは、当座は何者によっても埋められないはずであった。
2021/09/20
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