~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
道具の叛逆 (3-01)
熊のシミは、小山田文枝の血液型と符合したものの、K市「鳥居前」の捜査からは何も発見されなかった。最近の車体は静電塗装を施しているので塗料片がほとんで剥落しない。さらに事件発生時と捜査の間隔が開きすぎているために、現場の原形がほとんど失われてしまったのである。
小山田文枝が轢殺れきさつされて、遺体をどこかに運ばれて捨てられた疑いは強くとも、まったく手がかりがないことには探しようがなかった。
警察の捜索は打ち切られた。もともと、被害者側の訴えにもとづいて始められた捜索だから、あまり熱意がなかった。後には小山田と新見だけが残された。二人だけでは、もはやどうすることも出来なかった。
「小山田さん、これからどうしますか?」
{わかりません」
小山田は絶望の目を宙に泳がせたまま、答えた。
「まだあきらめてはいけませんよ」
「しかし、これ以上、どうしたらいいのですか?」と問われると、新見にも答えられない。
「とのかくこの際、あきらめないということが大切だと思います。私たちが探さなかったら、誰が奥さんの行方を探すのですか。私には彼女がどこか遠方から熱心に呼びかけているような気がしてなりません」
「しれはそれはあなたを呼んでいるのですよ。私にはそんな声は聞こえませんね」
小山田は投げやりに言った。もう彼には、、妻の行方などどうでもいいようであった。
「小山田さん、あんたのお気持ちはわかりますが、あなたがそうおっしゃっては、奥さんがお気の毒です。ななたを呼んでいるはずです。その声に耳を塞がないでください」
新見は、虚脱したようになっている小山田を慰めたり、励ましたりした。新見自身も文枝(彼にとってはなおみ)を失って、魂の最も重要な部分を切り取られてしまったような虚脱感に打ちのめされていた。
だが、それを小山田には悟られてはならなかった。新見の打撃の大きさを悟らせること自体が、小山田に二重の打撃を与えることになるのである。新見には、文枝の失踪しっそうおおやに歎く資格がない。その意味では新見の受けた打撃は、小山田のそれよりも救いがなかった。
世間的には、人目を忍ぶ不倫の情事であっても、誓い合った愛は、本物であった。新見は、これまでに、これほど激しく異性を愛したことはなかった。文枝によって、初めて本当の女を知らされた思いであった。文枝も同じ事を言った。
妻との結婚には打算があった。その打算は当たって、現在の位置までとんとん拍子に進んで来た。しかし結婚を打算でった代償は高かった。冷え切った家庭の中に、新見は妻と同居しているだけに過ぎなかった。子供も生まれたが、それは愛の結実ではなく、肉体的に健康な男女の生殖の当然の結果であった。
新見は、妻との同衾どうきんに欲望や情感をおぼえたことはない。皮膚の接触による反応によって、なにがしかの精液を妻の体内に射出していただけだ。
しかも保身のためとはいえ、結婚後はそんなセックスが彼にとって唯一のセックスであり、妻だけが許されたただ一人の女性であった。
そこに現れたのが文枝である。彼女は心身のすべてが新見好みに出来たいた。まるで一覧双生児のように精神が感応し合い、身体が反応し合った。
彼らは急流に引かれるように、互いの中にのめり込んで行った。一応、保身のための歯止めはかけていたが、そのまま行けば遠からず急流の果ての滝壺たきつぼに向かって二人もろとも落ち込んで行くのが、目に見えるようであった。
っている時間の燃焼が激しく、充実しているほどに、別れている時の寂しさに耐え難くなった。相手が恋しくて、なにも手につかない。いつも一緒に居られないというもどかしさから、発狂してしまいそうな気がした。
そんな矢先に、文枝は姿をくらましてしまったのだ。彼女の生存する可能性は、きわめて低い。生きてさえいれば、新見のもとへいちばん先に連絡して来るはずである。
ショックで昏睡こんすいをつづけているか、監禁されている可能性もないことはないが、これだけの期間、負傷した女性を人目に触れさせずに閉じ込めておける場所があろうとは思えない。
「なおみ、どこへ行っちまったんだ?」
新見は、周囲に誰も居ない時、何度も声に出して問いかけた。彼女は、どこか遠方からしきりに新見を呼んでいた。それはたしかに彼を呼ぶ声であった。
「あなた、来て! 私を助けて」
それは遠い地の底からいてくるような声である。
「いったいどこにいるんだ? なおみ、おしえてくれ」
そのひそかな陰々たる声に追いすがっても、ただたすけてとあえかに悲し気に答えるだけであった。その声は、夜、枕に押し当てて耳を澄ますと、より悲し気に、苦し気に訴えかけて来る。
どんなに訴えられても、探しようがないだけに、新見の焦燥感は募るばかりであった。
「なおみ、もし君がもうこの世の者でないとしても、君の霊に託して、居場所を教えてくれ、君はどこに居るんだ。教えてくれさえしたら、ぼくの腕に抱き取って、君を安らかに眠らせてあげよう」
枕に耳を押しつけて何度も語りかけているうちに暗い眠りの中へ落ち込んで行くのである。新見にとっても、彼女を探し出すまでは安らかな眠りは得られなかった。
2021/09/20
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