~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
道具の叛逆 (4-01)
日曜日に、新見の妹夫婦が遊びに来た。彼の末の娘の千代子は、建設会社の社員の魚崎と五年前に結婚しt。山へキャンプに行って、その近くのダム築造工事に来ていた魚崎と知り合い、結婚したのである。夫婦の間には、三歳の子が一人いて、今年から三年保育の幼稚園に行く、今日彼らが来たのは、魚崎が近くブラジルへのプラント輸出の一環として現地へ建設するダム発電所の技術者として長期出張することになったので、その別れの挨拶あいさつも兼ねている。
「幼稚園といっても大変なんですよ。主人と私が交替で三昼夜も並んで、ようやく入園資格をもらったのよ」
新見が皆の集まっている部屋へ入って行くと、千代子が大仰な口調で妻に話していた。
「何を話してるんだ?」
新見が問いかけると、千代子が彼の方へ顔を向けて、正拶ただしという彼らの一人息子に一流幼稚園の入園資格を得るために受け柄開始の三日前から夫婦交代で行列した話しを繰り返した。それは成城にあるセント・フェリス大学の附属幼稚園で、ここに入園すると、大学までエスカレーター式に行けるので、都内および近県から定員の数十倍も押しかける。
「おまえ、そんな馬鹿々々しいしいこtに、魚崎さんを引っ張り出したのか」
新見がいささかあきれて言うと、
「馬鹿々々しいなんてひどいことを言うのね。正の一生を決定するかも知れない重大な問題なのよ」
千代子は口をとがらせた。
「たかが幼稚園じゃないか。幼稚園なんて、どこだって同じだろう。お前だけでなく、今の母親は、大げさに考えすぎるんだ」
それは、妻にも聞かせているつもりだった。
「お兄さん、それは認識が甘いのよ。今はね、幼稚園から差をつけられるのよ。幼稚園の頃の人間形成期につけられた差は、一生詰められないそうなのよ。お兄さんの子供の頃のようにのんびりしていないわ」
「それは、競争が厳しくなったことは認める。しかしね、人間の勝負は、死ぬまでわからないものだ。人生をスタートしたばかりの幼稚園や小学校あたりで、勝った負けたもないもんだよ。だいたい今の母親は、子供の教育にせっかちすぎる。子供の才能なんて、いつどこで芽を吹くかわからない。小さい頃から無理にしりぱたいても、親の思う通りにいくとはかぎらない。親の見栄やエゴから子供に競争させている場合が多いんだ。幼稚園や小学校の頃から子供に成績競争させて、悦にっている親は、俺に言わせれば、サル回しのコンクールだね」
「まあ、サル回しのコンクールなんてひどいわ」
千代子は、歯をみしめて、今にも泣きだしそうな顔になった。
「あなた、魚崎さんがせっかくいらしてくださったのに、そんなこと言ったら悪いわよ」
妻が見かねて取りなすと、
「いやいや、まったく義兄にいさんのおっしゃる通りですよ。ぼくも今のせっかちな教育の傾向には疑問を持っていたのです。親が平均化してしまったものだから、せめて子供に競争させて差をつけさせようとしているんですかね。それとも子供に期待を寄せすぎて、親の果せなかった夢を子供に託そうとするんでしょうか。とにかく今の幼児期からの英才教育にはすさまじいものがあります」
魚崎が我が意を得たりとばかり、大きく相槌あいづちを打った。
「あなたまでが一緒になってひどいわ。先へ行って苦労させるよりも、今のうちに無理をしても、いい所へ入れた方がいいということで、あなたも了解したんじゃない」
千代子が早速、夫へ攻撃の鉾先ほこさきを向ける。
「ろりゃあ、なにせ、正の教育は君に任せてあるんだから、君の意志を尊重したんだ」
「私に任せてあるなんて、そんな無責任なこと言わないで、私たち二人の子供なのよ」
「それはまあ、俺たちの共同作業の結果だからな」
魚崎は、まだ十分に若い妻がむきになっている姿をにやにや見た。
「なによ、いやらしい笑い方をして」
「俺がいま笑ったのが、いやらしく見えたということは、お前もいやらしい証拠だぞ」
2021/09/23
Next