~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
道具の叛逆 (4-02)
夫婦の口げんかが変な方向へそれかかった。
「まあ、いつになっても、お熱い雰囲気なのね」
新見の妻が、羨望せんぼうの色を面に浮かべた。その表情には真剣味があった。それはそのまま彼女と新見の夫婦生活の不幸の色合いでもあった。
ちょうどそこへ、正が新見の下の子供の小学生ともつれ合うようにして、一同の居る部屋へ駆け込んで来た。今まで別室で遊んでいたのである。
「かえして、かえしてよう」
正は叫びながら、新見の息子の後を追いかけている。彼が正の持って来た縫いぐるみを取り上げてしまったのだ。
「隆一!小さい子供をからかってはいけません」妻が息子の名を呼んでしかった。
新見は隆一が抱えている縫いぐるみになにげなく視線を向けて、愕然がくぜんとした。驚きが大きすぎて全身が感電したかのようなショックをおぼえた。それは、熊の縫いぐるみだった。それも、形、サイズ、材料、色合いなど、例の熊と寸分ちがわないものだった。ただこちらの方が新しい。
新見は、初め、息子があの熊を持ち出して来たのかと思った。だが、それは友人に血液型の割り出しを依頼した後は、会社のロッカーに保管してある。
「そ、その熊は、いったいどうしたんだ?」
いきなり強い声を出した新見に、子供たちの方がびっくりした。正は、一瞬、きょとんとして新見の顔を見つめると、次に母親のもとへ駈け寄って泣きだした。新見に叱られたと勘違いしたらしい。
「まあまあ、いきなり大きな声を出してどうしたのよ。正ちゃんがびっくりしてるじゃないの」
妻にたしなめられて、
「いやちょっと、その熊が珍しかったものだから」
と新見は取り繕った。
{ごく普通の縫いぐるみじゃないの」
「これをどこで買ったんだ?」
新見は妹の方を向いてたずねた。
「買ったんじゃないわよ、もらったのよ」
「もらった、誰から?」
「フェリスの入園記念よ、幼稚園が入園児に贈ってくれたのよ。もっともただじゃなくて、ちゃんと入園金の中に盛り込まれているんだけど」
「入園記念だって? 入園児にはみんなくれるのか?」
「そうよ。フェリスの動物人形は有名よ。子供の一生の守護神として、これだけ欲しがる母親もいるわ」
「毎年、熊をくれるのか?」
「その年によって、犬や猿やうさぎもくれるわね、今年は熊だったわ。熊がいちばん人気があるのよ」
「人気があるというと、今年以外にも熊をくれた年があるんだな」
「だいたい五年サイクルで回って来るみたい。でもお兄さんがどうしてそんなことに興味を持つの?」
「おもしろ縫いぐるみだったので、ちょっと興味をかれたんだよ。その縫いぐるみを入園児に贈っているのは、フェリスだけかい?」
「たぶんそうだと思うわ。いっさい市販もされていないし、縁起がいいというので、お古でも欲しがられるから」
「毎年どのぐらいくばるんだ?」
「園児の数だけよ。毎年五十人ぐらいしか取らないから、数はだいたい同じでしょ。でもお兄さま変ね、今まで縫いぐるみなんかに興味持ったこともないのに」
妹には、そのことの方が興味深かった様子である。
2021/09/23
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