~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
道具の叛逆 (4-03)
翌日、新見はセント・フェリス大学附属幼稚園に出かけて行った。セント・フェリス大学は、成城の閑静な一角に広大な敷地を占めている。ここに幼稚園から大学までの、人生のエリートコースに乗るための英才教育施設がワンセットになっているわけである。
構内には緑が豊かである。校舎は樹木の間に埋もれたようにある。校舎をめぐって敷き詰められた広々とした芝生は、学生たちに解放されている。その上に女子学生がそれぞれの形で花のようにたむろしている。
学生用の駐車場には、スポーツカーや外車も見える。学生たちの服装も、学生らしくない。金に不自由のない良家の子弟ばかりを集めたハイブラウな雰囲気である。
事実、この学園で、授業料値上げや、イデオロギー的な問題から紛争が起きたことはない。授業料がいくら上ったところふぇ少しも困らない裕福な学生ばかりであり、彼らにとって、政治やイデオロギーよりも、いかにして二度と繰り返しのきかない青春を最も楽しく過ごすかということが重要な問題だったのである。
時折、ごくまれに場所を間違えて入学した学士によって学園紛争の種が持ち込まれることがある。彼らは外部に応援を求めて、懸命に扇動しようとした。しかしセント・フェリスの学生は、いっこうに同調しなかった。
およそ学園にとって、闘争とか革命は、異質であった。「美しき青春」、ただそれだけあればよいのである。上流社交サロンの高雅な雰囲気の中で、サラブレットの知性と教養を身に付けさえすればよい。
豊かな社会的地位のある親たちが、自分らのために、快適な環境をつくっておいてくれた。自分らは、親が敷いてくれたレールの上を忠実に走ってさえいればよいのだ。それをどうしてわざわざえる必要があるのか?。
こうして異質なものは、速やかに学園からはじき出された。全国に吹き荒れた学園紛争の嵐も、ここだけは避けて通った。
広大な学園の構内の奥まった一角に、附属幼稚園があった。
驚いたことにここにも駐車場があり、高級車がそのスペースを埋めている。それは園児を迎えに来た車であった。セント・フェリスの名声の下に、都内はもとより都下、東京近県からも園児は通って来る。これたの園児を送り迎えする車の為に駐車場が設けられているのである。
新見は、妹夫婦の資力で、はたして子供を通わせつづけられるか、本来の訪問目的も忘れてふと不安をおぼえた。
通された応接室で、新見は「事務長」の肩書を持った男に会った。彼は、新見が差し出した“熊”に不審気な視線を向けたが、直ちにそれがセント・フェリス幼稚園が入園児にくばったものに違いないことを認めた。
「熊が、どうかしましたか?」
事務長の目に当然ながら不審の色が濃くなった。
「実は、この熊の持ち主がき逃げされたらしいのです」
「轢き逃げですと?」
「正確には、轢いてから、被害者をどこかへ運んで行って隠してしまったらしいのですよ」
新見は、被害者を犯人を入れかえて話した。自分は偶然事故直後、現場の付近を通りかかって熊を拾った者だが、具体的な証拠が他にないので、警察も動いてくれない。熊に付いている血は被害者の物に違いない。
通りすがりの者にすぎないが、せめて被害者の遺族に返してやりたくて、こうしてその身許みもとを探しているとまことしやかに話した。
事務長は、新見の話を信じたらしい。
「これは昭和三十三年度の入園児に配った記念品です」
「どうしてそれがわかるのですか?」
「私どもでは、すべて三年保育制を実施しておりますが、リス、ウサギ、サル、クマ、イヌの順番で五種類の動物縫いぐるみを回転して入園児に配っています。ですから五年ごとに、同じ動物が回って来るわけですが、熊は、三と八の年に当たります。三年組は、鼻が黒く、八年組は鼻だけ白くしています」
「三十年代というのは、どこでわかるのですか?」
「のどに白い差し毛が三筋あるでしょう。これで三十年代を表しています。各動物ごとに爪を使ったり、歯や耳を使ったりして、それぞれの年度がわかるように工夫してあるのです」
「なるほど。それでいかがなものでしょう。三十八年度入園児のリストを見せていただきませんか」
「さあ、それは・・・」
「哀れな被害者のものかも知れない遺品をご家族に返してさしあげたいのです。もし家族から、捜索願でも出されていれば、この熊の出現によって、警察も動いてくれるかも知れない」
「そういうことならよろぢいでしょう」
ためらっていた事務長は、新見の巧みな説得に押し切られた。熊の所有者を被害者に仕立てた彼の作戦は当たった。もしこれが加害者の遺留品と聞けば、栄えあるフェリス幼稚園の卒業生にかぎってそのような凶悪無残な人間は居ないと扉を閉ざされて、とてもリストを見せてもらうどころではなかったはずであった。
昭和三十三年度の入園児は、四十三名で、現在、十九─二十歳の年齢に達している。」
2021/09/25
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