~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
道具の叛逆 (5-01)
「恭平、恭平ったら!」
しきりに呼びかける路子の声に、恭平はハッと目ざめた。全身ぐっしょり汗をかいている。
「いったいどうしたのよ、ひどくうなされていたわ」
「いやな夢を見たんだ」
「このごろよく魘されているわよ」
「いつも誰かに追いかけられている夢なんだ。洞窟どうくつみたいな中を必死に逃げている。
逃げても逃げても追っ手を振り切れない。決してつかまらないんだが、いつも足音がすぐ背後に聞こえる。ひたひたと迫って来る足音がまだ耳に残っている。それなのに、足がぬかるみにはまったように重くてよく動かない」
「気にしすぎよ。そんなことでどうするの」
「わかってる、でも自分でもどうにもならないんだ」
「そんな風にしてたら、自分で墓穴を掘るようなものよ。そうだわ、思いきって旅行をしてみない?」
「旅行?」
「そうよ、海外へ行くのよ。日本を離れたら、あなたのノイローゼもなおるかも知れないわ」
「海外か」
「ねえ、悪くないでしょ。二人でどこか遠い国へ行って見ない? 私、まだ外国へ行ったことないのよ」
「俺だってないさ」
「だったら、ちょうどいいじゃない。ねえ、二人で行きましょうよ。そうすれば、あの事件も忘れられるし、嫌な夢も見なくなるわよ」
路子は、自分の思いつきに浮き浮きしている。
「しかし、おやじやおふくろが許してくれるかなあ」
「いまさら何を言ってんのよ。あなたは、両親から独立したんでしょ。一戸を構えた立派な主なのよ」
{外国へ行くには金が要るよ」
「そのくらいのお金、ママに出させるのよ。彼女を有名にした本は、もともとあなたが書いたようなものなんでしょ。印税だって当然半分ぐらいもらう権利があるわ」
「そりゃまあそうだがね」
「なによ、煮え切らないのねえ。もしお金を出してくれなければ、このマンションを売り払っちゃえばいいじゃないの、あなたの名義になってるんでしょ」
「マンションをかい?」
恭平は女の思いきった思案に目を見張った。
「そうよ、このマンションなかなか贅沢ぜいたくに出来てるわ。最近の物価の高騰で、買値より高く売れるわよ。マンション一戸分のお金があれば、外国でたっぷり遊んで来られるわ」
「しかし俺が外国へ行っちまったら、おふくろが困るだろうな。なにしろ俺がおふくろの大事な商売道具なんだから」
「まだそんなことを言っている。あなたのマザーコンプレックスも相当なもんだわね。あなたはなんのかのと言ったところで、ママのてのひらの上から逃げられないんだわ」
「そんなことはない!」
「だったら、この際ママのことなんか考える必要なはないでしょ。彼女には、あなたの妹さんというもう一つの商売道具が残っているわよ。もうバトンタッチしてもいい頃だわよ、それに・・・」
そこまで言って、路子はふと言葉をにごした。
「それに、何だ?」
「それに、万一、警察が追って来ても、外国に逃げていれば、どうしようもないでしょう」
「警察が追って来ると思うのか?」
恭平は怯えたような表情になった。
「万一の話しよ、あなただってそんな変な夢を見るのは、意識の底に警察があるからでしょ」
「警察がどうして追って来るんだ、なんの手がかりもないはずだぞ」
恭平は、自らの不安を振り払うように、かん高い声を出した。
「そんな大きな声を出さなくても聞こえるわよ。熊のことを忘れているわけじゃないでしょうね。熊はまだ見つかっていないのよ」
「熊のことは、もう言うな!」
「だから、熊の追いかけて来られない所へ行きましょうよ」
「そうだな、熊の海は泳いで渡れねえだろう」
恭平もようやく意思の定まった表情になった。
2021/09/27
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