ニューヨークでは、なるべく歩道の車道に近い側を歩けと言われる。それは建物側を歩いていると、横丁へ引きずり込まれて身ぐるみ 剥がされてしまう恐れがあるからである。
セントラルパークで日本人留学生が数人の不良に取り囲まれて撲なぐられたり、首をしめられたりした事件がつお数日前に発生した。学生は付近に居合わせた人々に必死に救いを求めた。
だが、誰も知らん顔をして通過するだけである。たまたま通りかかったパトロール警官によって留学生は救出されたが、まだ入学したばかりなのに、彼は急遽きゅうきょ退学して日本へ帰ってしまった。
日本人留学生は、米国を去るに当たって、その時の恐怖を、「私はホールドアップに首をしめられたことよりも、その時現場を通りかかった教養ありそうな老人夫婦に救いを求めたところ、奥さんがつまらないかかり合いになるなと旦那だんなの袖そでを引っ張って逃げて行ってしまったところに、アメリカの本当の恐さを見たのです」と語ったそうだが、ケンはまさにアメリカの病蝕びょうしょくの本質を突いた言葉だと思った。
無関係の人間が、生きようと殺されようと、まったく関心がない。自分の生活の平穏無事さえ保障されていればそれでよいのだ。だから、それを少しでも脅かす虞おそれのある者は、徹底的に忌避きひする。正義のための戦いは、自分の安全が保障された後のことだ。
常識的な社会人が犯罪を見て見ぬ振りをするようになったのも、人間の坩堝るつぼの中に巨大化した機械文明によって、人間の本質を見失ってしまったからである。
自分の垣根の中のしあわせさえ守ればよいとしる風潮は、驚くべきことに、警官の中にまで浸透してきた。彼らが個人の権利と自由を保障し、公共の安全と秩序を維持するために行動するのは、勤務中だけであり、自由時間フリータイムの間は、一個の私人に還かえってしまう。
目の前で危難に陥っている人間を見ても、それを救うために自分の安全が脅かされる虞のあるときは、目を背そむけてしまうこともあるのだ。
ケンも決してその例外ではなかった。殺人でも発生すれば、職業的な本能から追跡するだろうが、長い激務から解放されて帰途につく時、市民がチンピラにからまれているぐらいなら、見て見ぬ振りをする。
警官だって、人間なのだ。労働の後は、休む権利がある。
だがそういう意識に、さして抵抗をおぼえなくなっている自分自身を、うとましく思うことがある。
「俺もいつの間にかニューヨークに毒されているのだ」
そんな彼のとって、日本は「人間の住んでいる国」として、遠い記憶の中に烟けむっていた。そこへウイルシャー・ヘイワードは自分の体を犠牲にしてまで、息子を行かせた。いったい日本に何があるのか? ── そこにケンは、個人的興味をおぼえたのである。
|
2021/09/30 |
|