~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
おもかげの母 (2-01)
ケンは、再三、ヘイワード父子の住んでいたアパートへ行った。相も変わらず紙くずと、悪臭とアル中のたむろする街である。
驚いたことに、この前に来た時に見かけた同じ人間が同じ場所にたむろしている。ウイルシャー・ヘイワードもかつてその仲間の一人だったのであろう。
ヘイワード父子が住んでいたアパートの近くの路上に、数人の男たちが悄然しょうぜんと立っていた。彼らの酒焼けした頬がいずれもうすくれて光っている。彼らはいているのだ。
ケンは、歩み寄って一人にたずねた。
「旦那、可哀想に、これを見てやってください」
男が指さした。一人の浮浪者が壁に寄りかかってうずくまり、ひざの上に面を伏せている。彼の前に数本のウィスキーの瓶が並んでいる。いずれの中にも、まだ中身があった。ケンは何が起きたのか、すぐに悟った。以前にも、これと同じようなシーンにぶつかったことがある。
「いつだ?」
「今朝、来てみたら、いつもの場所にサルディのやつ、すっかり冷たくなっていたんでさあ。俺たちよりも先にっちまうなんて、サルディめ、とんでもねえ野郎だ」
男の頬に涙の粒が筋を引いた。
「それでしらせたのか?」
「へえ、間もなくボディカーが引き取りに来る頃でさあ」
それは寂しい告別の式であった。アル中の浮浪者が一人、街角で死んだのである。人生に挫折ざせつした人間が、アルコールに逃避し、いつの間にか流れ着いたニューヨークの吹きだまりの一角で、結局、アルコールに身体を滅ぼされていくのである。
すべての希望は失われた。酒以外のあらゆる欲望も去勢された。生きるしかばね のようになった身体を通行人から施しを受けた金で買った酒の中の浸して、本当に死ぬ日までの時間を茫然ぼうぜんと過ごす。
しかし死んだも同然の人間でも、仲間が死ねば悲しい。つらく不毛の人生であったが、道端に死んだ鼠か鳩のように好みの定位置で、安ウィスキーのボトルを抱いて死んでいった仲間の姿に、改めて自分のなれの果ての重ねてしまうのだ。
だが、彼の死は、少なくとも孤独ではない。アル中仲間が周囲に集まって、ウィスキーボトルを位牌いはい代わりに告別してくれるからである。
「サルディめ、死ぬ前にあんなに故郷へ帰りたがっていたのに!」
「故郷はどこなんだ?」
「イタリアのサルデニアって島だそうだよ。俺はどの辺にあるのか知らねえがね」
サルデニアから来たので、サルディと呼ばれていたのだろう。本人もあだ名で呼ばれている間に、本名を忘れてしまったかも知れない。
ここにいる“会葬者”はみんなそのような呼ばれ方をしている。中には、自分の故郷がどこか知らない者も居る。そういう連中はネストレス(宿なし)、ラッツィ、ラッツォ(ねずみ)等と呼ばれる。
会葬者はいずれ自分たちも同じ運命を辿ることを知っている。死んだ仲間に別れを告げながら、みな自分が最後になりたくないと思っている。自分の死を見守ってくれる者があるうちに死にたいと願う。
やがて市のボディカーがやって来た。ニューヨーク市に毎朝、このような行き倒れが数名出る。彼らは道端や、地下鉄の構内、公園のベンチ、公衆トイレット、時には公衆電話のブースの中などでひっそりと死んでいる。これらの死体ボディを拾い集めて走るのが、ボディカーの役目であった。
ボディカーが去ると、彼らはそれぞれの定位置に戻って、またウィスキーに耽溺たんできする。
「旦那、一杯どうだね?」
会葬者の一人がボトルを差し出した。彼らはニューヨークの底辺にいたメタンガスのようなものだが、アルコール以外のすべての欲望は去勢されているので、危険性はない。
その手を払いのけて、ケンはアパートの入口の階段を上った。マリオは、相変わらずテレビをすざまじいボリュームでつけっぱなしにしていた。
入って行ったケンに、また来たというように大仰に肩をすくめて、
「旦那が言ったように、あの部屋はまだ空けてますよ」
と言った。
「ふん、あんなごみため、入り手がないんだろう」
「冗談じゃありませんよ。いまはホッベッドだってなかなかありつけないんです。毎日借り手が行列してます。警察に睨まれると恐いんでね、家賃レントの保証は警察がしてくれるんでしょうな」
「大家みたいな口をきくじゃないか。家主はとうに放棄してるんだ。こんな豚小屋は、レントよりも修理費が高くつくからな」
「そんなことより、今日は何の用ですか、警察の旦那にうろうろされるような悪いことはしてないはずだかね」
マリオの口がくずれてきた。
「とにかく、そのテレビをなんとかしてくれ」
マリオは、巨大身体を重そうにゆすって、テレビを消すと、ケンに向かって肩をすくめた。
2021/10/02
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