~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
おもかげの母 (2-03)
マリオが教えてくれた日本女性のは、ハーレムとイーストハーレムの境目にあたる。路傍にたむろしていた浮浪者に聞くと、すぐにわかった。彼らも彼女の素材になっているのだろう。
そのアパートは、マリオのそれと同様に古ぼけ、汚れていた。いずれ取り壊される運命にある赤レンガの四階建ての建物の壁にスプレイラッカーで反戦スローガンや猥褻わいせつな言葉が書きなぐられている。
入口階段脇のごみ容器のポリバケツがひっくり返され、野良犬が中身をあさっている。そのすぐそばで、アル中の老人が日向ひなたぼっこをしていた。
だが不思議なことに、ハーレムのどこでも見かけられる子供たちに姿がない。頭をできものだらけにした子供たちが、ちょろちょろ走り回っていない昼下がりのハーレムは、伝染病で住人が死に絶えでもしたかのように無気味であった。
ここにはマリオのようなドアボスはいなかった。不在オーナーが直接レントを取り立てに来るのかも知れない。
日本人の部屋は、すぐにわかった。ドアに名札が表示されてあったからである。部屋は二階だった。ノックをすると、幸いに在室していて、内側に気配がおこり。「だれフーイズイット?」と誰何すいかされた。
異邦人のしかも女性の身で、ハーレムに住みつくとは、いい度胸だが、それなりの用心はしているらしい。ケンは名前と身分を告げて、ちょっと聞きたいことがあると言った。
警察と聞いて、ドアはすぐに開かれた。小柄な日本女性がそこに立っていた。
ハーレムに住んでいるくらいだから、どんな猛女かと思っていたケンは、相手がまだ二十代の若さと見える目鼻立ちのはっきりした美しい女だったのに、少しびっくりした。
「あなたが、ミシマ・ユキオですか?」
ケンは名札の名前を確認した。
「オウノー、私は三島雪子です」
表音上、高名な日本の作家と間違えられた相手は苦笑した。
「ケン・シュフタンです。しかし警官と名乗られたからといって、そう簡単にドアを開けて葉¥はいけませんね。ニューヨークには偽警官はいくらでもいる。本物の警官も信用出来ないことがあります」
ケンは初対面の相手をいさめた。
「まあ、そんなことはありませんわ。私、このハーレムに来てから、一度も危険を意識したことはありません。外から見ると恐そうだけど、みんないい人たちばかりです。どうしてハーレムを恐ろしがるのかわかりません。むしろハーレムから外へ出た時の方が恐いくらいだわ」
「それは、なたがまだハーレムの本当の恐さを知らないからですよ。いやニューヨークの恐さを知らないと言ってもいい。幸いにもあなたはここにお客として迎えられたから、この恐さに触れずにすんでいるだけです」
「私、ハーレムを、ニューヨークを、そしてアメリカを信用していますもの」
「アメリカ人の一人としてお礼を言います。ところで今日突然伺ったのは、ウィルシャー・ヘイワードという老人の写真をあなたが撮影したかもしれないと聞いたものですから」
「ウィルシャー?」
「イースト123ストリートのアパートに住んでいた黒人です。六月ごろ交通事故に遇って死にましたが。息子のジョニーと一緒に住んでいました」
「ハーレムの住人は、たくさん撮りましたけど、ないか特徴はありませんか」
「特徴ねえ、そいつを知りたくてやって来たんだが」
「いくつぐらいの人ですか?」
「六十一歳で、アル中です。若い頃日本へ兵役で行ったことがある」
「日本へ? 123ストリートでしたね、もしかしたら“日本爺ジャパンパさん”じゃないかしら?」
日本爺さんジャパンパ?」
「大の日本贔屓ファンで、若い頃日本へ行ったのを懐かしがって、ジャパンパと呼ばれているんです」
「あの辺で日本へ行った人間は、そんなにいないはずだが」
「ジャパンパの写真なら、たくさん撮りましたからお見せしましょうか」
「ぜひお願いします」
「どうぞお入りになって」
彼らはそれまで戸口で立ち話をしていたのである。同じ造りのハーレムの建物の内部であったが、若い女性の住居らしく、マリオやヘイワードの部屋とはちがう華やかな暖かみがあった。
2021/10/05
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