~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
おもかげの母 (2-04)
通された所はメーンルームで、食卓、椅子、ベッド、ベッドサイドテーブル、ソファ、ワードローブ、テレビ、鏡台などがそれぞれの位置を工夫して置かれている。本棚もあって、日本語の背文字も見える。部屋の中は住人の性格を示すように整然としていた。
窓に取り付けられたピンクのプリントカーテンが部屋の雰囲気を暖かくつやめいたものに仕立てている。ここにかなり長く住みついている様子であった。
仕切りのカーテンのかげに、写真機材らしいものが見える。暗室も部屋につくってあるのであろう。
待つ間もなく、ユキコが手に数枚の印画紙を持って隣りの部屋から出て来た。
「あら、おかけになればよろしいのに」
立ったまま待っていたケンに、彼女はびっくりしたような声をあげた。
ユキコは、ケンにソファを勧めると、
「なるべく特徴のありそうなのを選んで来ましたけど、これが日本爺さんです」
数枚のキャビネ判程度の印画紙を、差し出した。そこに分厚い唇と黒い皮膚の老いた黒人の顔があった。傷痕きずあとのように深くきざまれたしわ、老いて弾力を失った顔面に陥没したように細く光っている無表情な目、酒毒が実際の年齢より老けさせているのだろう。
すべての欲望が老化して、記憶だけを皺だらけの皮膚の底に封じ込めてしまったような老黒人の顔がアップでいくつかのアングルからとらえられていた。
「これがウィルシャー・ヘイワードですか?」
「名前は知りません。でも、123番街で日本へ行ったことのある黒人というと、この日本爺さんだけです」
ケンは、その写真を食い入るように見つめた。
「お知合いですか?」
ケンの異常なまでの熱っぽい視線に、ユキコが不審を持った様子である。
「いいえ」ケンは慌てて否定した。
「この写真を少しお借り出来ませんか?」
「おもちになって結構ですわ。こちらにネガがありますから」
「どうも有難う。それからこの部屋の模様はもっと殺風景に変えた方がいいですな」
「どうしてですか?」
「ちょっと艶っぽすぎます」
「つまり挑発的エクサイティングだとおっしゃるの?」
「いやエクサイティングだとは言わないが、ここはハーレムだということを忘れないでください」
「ご忠告有難う。でも、これまでどおりにやっていきますわ、今までなんにもなかったんですもの」
「それから、警官と名乗っても、部屋へ入れないこと。ただし私はべつですがね」
ケンはにやりと笑ってユキコの部屋を辞した。
2021/10/05
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