~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
遠い片隅の町 (1-01)
霧積一帯の捜索は、結局徒労に終わった。群馬県警の広げた広範囲の捜査網にも、ついに怪しい人物は、引っかからなかった。群馬側では、当初の推測通りの山中種は誤って足を踏み外して、ダムから落ちて死んだのだろうという見方に傾いて来た。
警視庁が変な雑音を入れなければ、無駄な労力と時間を省けたのにと、迷惑顔を露骨に見せた。
警視庁側は面目を失した形になった。だが、中山種は事故死ではないという確信は揺るがなかった。犯人が警察に先回りして被害者をダムの上に誘い出し、突き落としたのである。
そうでなければ、あんな半端な時間に七十を超えた老婆がダムの上に行った理由の説明がつかない。犯人が言葉巧みに誘い出したのだ。被害者は顔見知りの犯人の甘言に易々やすやすとおびき出された。
── 犯人と被害者の間に“敷鑑しきかん”がある ── と考えたのも、そのためである。
出張から帰って来た後も、棟居、うつつとしていた。無惨に打ち砕かれたおたね婆さんの遺体と、それに取りすがっていていた静枝の姿がまぶたに貼り付いて離れない。
── 犯人はジョニー殺しと必ずつながりがある ──
ジョニーの“関係者”として犯人が霧積を訪れた時、お種婆さんと知り合った。
婆さんはジョニーと犯人の関係を知ってい。もしそれ警察に話されたら、万事休すである。
だが警察の捜査は、まさに犯人が恐れていた方角へ向かって伸びて来た。
おそらく犯人は、霧積へ客として来て婆さんと知り合ったのだろう。しかし、婆さんが霧積を“引退”したのは、だいぶ以前のことである。そんな前の客のことを、老耄ろうもうした婆さんが覚えているだろうか? 客として来てから、引退した後も付き合っていたとすれば覚えていたかも知れない。
ここで棟居は、これまで見過ごしていた一つの盲点があったことに気が付いた。
山中種は、霧積温泉で働いていた。そして引退後も霧積の近くに住んでいた。したがって当然、その土地の人間とばかり思い込んでいた。
だが必ずしもそうとは限らないのである。中山種もとしの土地から霧積へ来て、そこに住みついたのかも知れない。
ひょっとすると犯人は、中山種の郷里(霧積ではない場合)から来た可能性もある。「犯罪死」を疑うのであれば、当然その方面も捜査すべきであった。
棟居は直ちに松井田署に問い合わせて、山中種が大正十三年三月に富山県八尾やつお町から松井田町の山中作造の戸籍に結婚のため入籍していることを知った。
「富山県八尾村か」
棟居は新たに得たなじみのない地名を見つめた。犯人がそこから来たのかっどうかわからない。だが霧積の人間とばかり信じていた老婆は、五十年以上も前に別の土地から霧積へ来たのである。
中山作造とどのような経緯から結婚したのか、それを知る者は、もう居ないだろう。棟居は、一時いっとき、自分の追跡を忘れて、五十年を隔てた茫々ぼうぼうたる過去、ひとみの明るい乙女が、いったいどんな希望を託して、異郷の夫のもとへ嫁いで来たのかと思った。
五十年も以前の富山と群馬では、今の外国より遠い距離感と違和感があっただろう。それを夫だけを頼りにして嫁いで来た。この土地の人間として定着するまでには、寂しさや心細さとの闘いがあったことであろう。それを克服して、ようやく子が生まれ、孫が生まれ、余生を静かに暮らしている時、突然、黒い凶手によってその老いた人生に終止符を打たれたのだ。
もし犯人が老女の郷里から来たのであれば、死んでも死にきれない思いだろう。
だが郷里の人間ならば、被害者が易々といおき出されたこともうなずける。棟居は、自分の着眼と調査の結果を一応捜査会議に提出することにした
2021/10/06
Next