~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
遠い片隅の町 (2-01)
列車は定刻より五分ほど遅れて、富山駅のホームへ滑り込んだ。まだ暁の気配も見えない。富山は、二人にとって通過する駅でしかなかった。ここから高山線に乗り換えて八尾へ行く。
「さすがに東京より寒いな」
横渡が胴震いをした。
北陸線の列車から降り立つと同時に、北陸の晩秋の冷気が暖房になまった身体を突き刺した。
「高山線が出るまで四十分ほどあります。どこかでやすみましょう」
二人は駅の構内に喫茶店を探したが、この時間に開いている店はなかった。駅の外へ出て探すほどの時間もない。彼らは止むを得ず、軽く洗面をした後、待合室で明け方の冷気に震えながら、列車が入線するまでの時間をつぶした。
高山線の鈍行は、北陸線の特急に比べて、グンとローカルカラーが強い。車両も四、五両編成で、車内の乗客も疎らである。こんな早朝、どんな用事をたずさえてどこへ行くのか、彼らは寒そうに身をすくめて、ひたすら睡眠不足の回復につとめているようであった。
「ああ、おかげですっかり目が覚めたよ」
横渡がさっぱりした顔で言った。
冷たい水で顔を洗い、外気にさらされたので眠けは完全に取れていた。
「よくやすめましたか」
「いや、寝台車なんてめったに乗らないので、興奮してだめだった」
「私もですよ、しかし身体は楽だったですね」
「これが普通の座席に一晩揺られて来たら、たまらなかったな。今日は仕事にならなかったよ」
「ところで、この列車が八尾へ着くのは、六時十九分です。少し早すぎますが、どうしましょうか」
「この時間じゃあ、役所関係も開いていないしな、こりゃあ、富山でゆっくりして来たほうがよかったかな」
「八尾署へ顔を出してみますか」
「まあ宿直は居るかも知れないが、事件でもないのに起こすのも悪いなあ」
この時間だと、警察の宿直もまだ起きていないかも知れない。静かな山峡の警察署を血なまぐさいにおいを帯びた東京の刑事が朝駆けしたら、さぞやびっくりするだろう。
「まあ、いずれ一度は顔出しするにしても、少し時間をずらせたほうがいいな」
「そうですね」
話している間に、列車はゆっくりと動きだしていた。野面のづらがうす明るくなっていた。
市街地はとうに出はずれていて、雪が積もったように白々とした野面の果てに、消え残った人家の灯が心細げに震えている。
時折、列車が停まると、そこが駅である。その都度何人かの乗客が静かに交代した。
列車は平野を山の方角に向かってガタゴト走っていた。
野面に散開していた灯が次々に消えていった。朝の気配がますます濃厚になって、視野が朝のよみがえりの中に拡大されてくる。厚ぼったい雲が頭上に張り詰めた北国らしいどんよりした朝であった。
「次だな」
横渡が、いま発車して来た駅名表示を読みながら言った。山が迫って来た。人家がいくらか密集してきたように見える。降り支度をする乗客の姿があった。富山を出てから初めての町らしい町である。間もなく列車は「越中八尾」と表示された駅のホームに滑り入った。長い車両編成だと、しりがはみ出してしまうような短いホームにまばらな人影が降り立つ。
「やれやれ、やっと着いたな」
横渡が立って伸びをした。富山から乗った客は、そこでほとんど降りる様子だった。長途来た客は彼らだけらしい。
地元の乗客について跨線橋こせんきょうを渡り、改札口を出ると、人々はたちまちそれぞれの行先に向かって散ってしまった。背中を寒そうに丸めて、せわしい足どりで歩いて行く彼らには、みな確固たる行先がある。
わずかな乗客を吐き出した駅前は、すぐに白々とした元の静寂に戻った。この北越の小さな田舎町は、まだ目覚めていない。「歓迎」のアーチが空々しい。駅前の商店もかたく表戸を閉ざしたままで、駅前広場からのびる町筋にも人影は見えない。遠方の横断歩道を犬を引いた老人がゆっくりと渡っている。車の姿も見えないのに律義に横断歩道を渡る老人と犬の姿が、人気ひとけのない風景を強調している。
「これは、やっぱり早く来すぎたかな」
横渡が低い家並みを両側に連ねて一直線にのびる無人の駅前通りを眺めて、ため息を吐いた。
「食堂なんかとても開いていそうにないから、その辺の旅館を起こして朝めしでも食わせてもらいましょうか」
「そうするか」
二人は駅の近くに見つけた旅館の戸をたたいた。『宮田旅館』と看板が出ている。朝食を取りながら、旅館の人間から八尾のおおざっぱな土地カンをつかむのは、悪い考えではなかった。
彼らの作戦では、まず町役場に行って、中山種の戸籍簿を当たり、その生家を探すつもりである。生家がすでになくなっていたとしても、古老に種のことを知っている者が居るかも知れない。
五十年も以前の離郷者にかかわりを持っていたかも知れない人間を探そうというのだから、それこそ雲をつかむような話しである。
彼らは、初めから大した期待をこの町に寄せていなかったが、早朝の駅前の白くさびれた風景が、捜査の徒労を予告しているような気がした。
2021/10/10
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