~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
遠い片隅の町 (2-02)
旅館にまだ朝食の支度は出来ないと断られたのを強引に頼んで、彼らは押し入るように中へ入り込んだ。朝食にありつけたのは、それから一時間ほど後である。
「お客さんたち、えらい早いお越しながですねえ」
膳部ぜんぶを運んで来た若いお手伝いが詮索せんさくする目を二人に向けた。
「東京からだと、この時間しか列車がなくてね」
棟居がなにげなく言うと、
「あれえ、東京から来られたがですか」
若いお手伝いが目を輝かした。このご時世に東京にこんな素朴な反応を示す人間がいようとは思ってもいなかった棟居の方が、むしろびっくりした。
テレビのおかげで日本のどんな果てまでも、大都会のファッションが同時に行きわたる。むしろ地方の方が大胆なファッションの取り入れが早いくらいである。事実、そのお手伝いを見ても、東京の街角で見かける若い娘たちと少しも変わりはなかった。
「なにもびっくりすることじゃないだろう」
棟居が彼女の大げさな反応に苦笑すると、
「私、東京へ行きたいとおもっとがでう。東京でなあてもいいわ、とにかく、この町から出たいがよ」
「どうしただい? 静かできれいな町じゃないか。私なんかこんな町で静かに暮らせたら、どんなに幸せかと思うけどな」
「あんたら、この町に住んだことがないで、そんなことが言えるがです。私、自分のことなんかだあれも知らんとこへ行きたいが。ちょっと外へ出ても、知っとる人ばっかり。生まれてから死ぬまで知った人たちの中で暮らしたりするが、考えただけでもいやになってくるわ」
「君は大都会のアパートで病気になっても誰も見舞いに来てくれない、死んでも何日も誰にも知られず放りっぱなしにされているような生活がいいのか?」
「私、お互いのプライバーシーまで知り尽くした、こんな猫の額みたいな土地の生活がいやながです。いくら静かで穏やかなことでも、全然変化のない生活なんかおやだわ。いつか、どっかで野たれ死にするかも知れんけど、外へ飛び出して行って、いろんなことがしてみたいがよ。誰かここから連れ出してくれる人がおったら、今すぐでもいてくかも知れんわ」
まるで、棟居らが来いと言えば、そのまま一緒に来そうな口ぶりだった。
── 君の考え方は、ひどく危険だ ── と言おうとして、棟居は口をつぐんだ。言ってもわかることではない。未知の都会にあこがれる若者は、そこで手痛く傷つくまで、故郷のよさがわからないのである。若者の夢とは、所詮しょせん、自らの身体をもってあがなわなければならないものであった。これはまた中山種の孫娘の静枝とは、正反対の考え方を持っている娘だった。だが静枝の祖母もこのお手伝いと同じ様な動機から郷里を去ったのかも知れない。
「あれえ、だら(ぐず)みたいにしゃべっとって、ご飯や味噌汁みそしる、さめてしまうわ。かんにんしらえ」
お手伝いは、ややうろたえて飯を茶碗ちゃわんに盛りはじめた。美味そうな味噌汁のにおいが鼻に迫って、腹の虫が大きく鳴いた。
「お客さんたち、東京から何しに来られたがですか」
飯を盛り終わってから娘が聞いた。そろそろ旅館が忙しくなる時間帯らしいが、娘はいっこう気にせず、すっかり腰を落ち着けている。土地カンのアウトラインをつかむには、まことに格好の相手に恵まれたようであった。
「ちょっと調べ事があってね、きみ谷井たにい種さんという人を知ってるかい。この町の出身なんだが、もう五十年も前にここを出ている。もちろん君が生まれる前のことだがね、ご両親や、おじいさん、お婆さんから名前だけでも聞いたことないかな」
「谷井」というのが種の結婚前の姓である。
「谷井たねさん?」
期待もせずに聞いたことだが、意外にも相手の口調に変化があった。
「知ってるのか?」
「私の名も谷井っていうの」
「君も谷井!」
「この町に谷井って姓は多いんです」
「それでは君の親戚しんせきかも知れないな」
「親戚いうたら、町の人みんな親戚みたいなもんだわねえ。たぐっていけば、みんなどっかでつながっとるから。それもここから出て行きたい理由ながよ」
「谷井種という名前におぼえはないかね」
「そうだねえ、そう言われてもちょっとわからんわねえ」
棟居は横渡と目を交わしながら、やっぱり役場で調べる以外なさそうだとうなずき合った。
2021/10/10
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