~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
遠い片隅の町 (2-03)
食事の半ばころから旅館の前の駅前広場が活気を呈して来た。通勤のラッシュ時間帯を迎えて、駅前らしい風景になっている。
乗客は降りよりも乗りの方が圧倒的に多そうである。学生や勤め人は、ほとんど富山方面へ向かう。それでも降りもけっこう多い。バスが頻繁ひんぱんに発着し、通りに車の数も増えた。
降り立った時にだだっぴろく映った駅前通りや広場が、今はせせこましく見える。静かな地方町も今は完全に目覚めた趣であった。

食事が終わると、そろそろ役場の開く時間になった。旅館のお手伝いから聞いたとおりの道筋を忠実に伝って、二人は町役場へ向かった。低い家並みの連なる駅前通りを一直線に進むと、T字路へ出た。ここを右へ折れると川のほとりへ出る。そこで道が二つにわかれ左手が橋へつながる。川幅はかなり広い。川底の小石が数えられるほどに澄んでいる。
お手伝いに教えられた知識によると、『井田川』である。橋は、コンクリート製の永久橋で、『十三石橋』と畔の橋名表示板に彫られている。
雲が切れて、陽が射してきた。陽の光が、水の流れに砕けて、寝不足の目にまぶしく光る。
彼らは橋の畔に立ち停まり、しばらく」川と両岸に広がる町のたたずまいを眺めた。富山平野はこのあたりから山地にかかる。この町は平野と山地の境界にあった。
そのために町は起伏の多い段丘の上に発達し、井田川がその中央を貫流して北方の富山湾に注ぐ。
高層の洋風建築物によってまだほとんどおかされていない、低いしかし統一されたような瓦葺かわらぶきの家並みが、町に一種の気品を与えている。いっときの通勤ラッシュ時間が終われば、町全体がふたたび眠ったようになる。ふるきよき地方の面影がそっくり留められている。日本の片隅の忘れられた町がそこにあった。
「こんな町が、まだ日本にあったんだな」
横渡が流れに砕ける光の反射にまぶしそうに目を細めながら言った。
「押し寄せる機械文明が、よけて通ったような町ですね、車もほとんど見えない」
「機械文明は、この町も決して見逃しっちゃいないさ。車の数は確実に増えている。この川の水の清さや、町並みの気品を守るか、それとも公害に明け渡すかは、住民の意識しだいだな」
横渡が言った時、数台の大型トラックが排気ガスをき散らしながら橋を渡って行った。
彼らはトラックによって現実へ引き戻された。町役場の建物は、橋の畔を右手へ坂を上りきった所にあった。スマートな鉄筋コンクリートの建物である。この町の数少ない洋風建物の一つだが、町の家並みに会わせて設計したのか、二階建ての庁舎は、古い町並にそれほど不調和ではない。むしろ病院のようなたたずまいの庁舎である。
彼らは玄関を入り、「住民課」の窓口へ行った。東京では最近珍しくなった妊婦服のような事務用上っ張りスモツクを羽織った若い女性係員が応接している。棟居がその係員に警察手帳を示して用件を伝えた。
「谷井種さんですね」
住民係は、警察手帳と大正十三年という言葉にびっくりしたような目をした。古い戸籍調べは、べつに珍しいことではないだろうかた、警察手帳の方に驚いたのであろう。
「ちょっと待ってくださいね」
彼女は、背後のファイリング・キャビネットから一冊の帳簿を引き抜いて来た。
「谷井種さんの本籍は上新町二七×番地にあったがですけど、大正十三年三月十八日に結婚のために群馬県の方に移しとられますね」
住民係の持って来た戸籍簿をのぞくと、たしかに松井田町役場の戸籍と符合している。
種の父親もこの町の生まれである。その原簿を追うと、彼らのきょうだいも当然のことながらすべて死亡していた。ただ町内福島に父の弟の娘、つまり種のいとこがまだ健在であることはわかった。
結婚後、「大室おおむろよしの」となったこのいとこに聞けば、あるいは、種の古い消息がわかるかも知れない。
二人は、念のため種の原籍のコピーをもらい、女性係員に上新町の種の生家のあった場所と、大室よしのの家の住所を聞いて、役場を出た。
上新町は、商店街であった。種の生家のあった番地は、駐車場になっていた。彼らは駐車場の地主という隣りの魚屋に種の生家のことを聞いたが、知っている者はいなかった。その土地の権利も魚屋が取得するまでに数代を経ていた。
そこは八尾としては、最も活気を帯びている一角であったが、五十年前そこに住んでいた人間の消息は、見事に消されていた。この眠ったような町にも、確実に人間の営みが繰り返されている。日々改まる旺盛おうせいな生活の営みが、容赦なく古い生活の痕跡こんせきを抹消していく。去った者は、新たに移り住んだ者の記憶にも残っていない。
二人は、そこに人生の過酷さを見せつけられたように思った。
2021/10/11
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