~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
遠い片隅の町 (2-05)
「ああ、おたねさん、これは懐かしい名前を聞いたもんやねえ」
老女の面に反応が現れた。
「おたねさんをご存知ですね」
棟居が念を押すと、
「知らんどころか、小さいころは姉妹のようによく遊んだもんですちゃ。しばらく消息を聞かんけど、達者まめに暮しておられっかねえ?」
老女は中山種の死んだことを知らないらしい。老女のいとこの陥った悲惨な運命をこちらから報せてやる必要もない。
「実はそのおたねさんについて詳しく伺いたいと思ってお邪魔したのですが、おたねさんはどんないきさつから群馬県の方へ行ったかご存知ですか」
「おたねさんは、当時のモガちゅうがはねえ、新しいもんが好きだったさかい、とにかくこの土地から出て行きたがっておったな。ここが嫌いというのではのうて、新しい土地へ行きたがっておったがですちゃ」
「ご主人の中山作造さんとはどのようにして知り合ったんですか」
「おらっちゃもくわしいことは知らんけど、富山の薬工場へ勤めに出て、そこで知り合うたらいいのう」
「山中さんも富山の薬工場へ働きに来ていたんですね」
「そゆがです。当時他国者よそもんとデキ合うたとおじごやおばごもひどう怒ってしもて、二人は駆け落ちしてしまいましたちゃ」
「駆け落ちしたんですか?」
「まだ披露もせんうちにねねができてしもうてなあ、おじごやおばごは氏素性のわからんよそ者の子供は絶対産んだらあかんちゅうてねえ、そっで腹にねねをかかえたまま手に手を取って駆け落ちしてしもたがですちゃ」
その胎児が、静枝の父か母になるのであろう。
「それで二人は、群馬県の方へ行って結婚したんですね」
「初めは勘当だ言うて両親ふたおやも怒っとったがですけど、駆け落ち先で子供が生まれたいうて聞いてから、やっぱり孫が可愛かっととみえて、二人の結婚を許しましたがですちゃ。籍を移したがは、駆け落ちしてから二年ほど後のはずだわ。当世の若い衆ならなんでもないことながだろうけど、あの当時は大騒動でしたちゃ」
よしのはその恋にかけた女の悲惨な末路を知らない。脂の抜け切ったような老女の目に恋に殉じたいとこに向ける羨望せんぼうの色が浮かんだ。
「おばあちゃんはさっき、おたねさんからしばらく消息を聞かないと言われたが、その消息とは手紙でも貰ったのですか」
「そゆがです。おたねさんは時々思い出したように手紙をくれたわいね」
「それはいつ頃のことですか?」
「さあ、最後に貰うたのは、十年ぐらい前だったろうかねえ、いや二十年かのう」
よしのは記憶を探る目をした。長く生きた老婆の過去は茫々ぼうぼうとして、記憶の刻み目がみつからないのであろう。
2021/10/13
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