~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
遠い片隅の町 (3-01)
「あった!」
手元の手紙が数枚を残すのみとなったとき、横渡が叫んだ。
「ありましたか」
失望への天秤てんびんが大きく傾きかけていただけに、棟居は救われた思いで、横渡の手許をのぞいた。黄色に変色した古い葉書である。。
「中山種、松井田局の消印になっている」
「日付はいつになっていますか」
「昭和二十四年七月十八日か、ずいぶん古いなあ」
横渡は嘆声を発した。彼らは文面を見た。インクの色もかすれていたが、女らしい細い丸みを帯びた字で次のような文章が読み取れた。
── 御無沙汰ごぶさたいたしておりますが、お達者にお過ごしですか。私も当地にすっかり落ち着いてしまいましたが、八尾もずいぶんと変わったことでしょうね。過日は、珍しいお客がありました。話しをしているうちに、八尾出身の人ということがわかりました。久しぶりに八尾の話しをしました。そんだらがっちゅう、八尾のことをおもいだえてやー便りしたすちゃ ──
末尾の方が、土地の言葉で書かれている。結局、保存されていたのはその一通だけであった。
「この八尾出身の客というのは、誰のことだろう?」
「さあ、名前は書いてありませんね。お婆さん、おたねさんがその後の手紙でこの客について何か言って来ませんでしたか?」
「いーや、これだけですちゃ」
「棟居君、君、この客が事件に何か関係があると思うか?」
「これだけでは何とも言えませんが、ちょっと気になることがあります」
「何だね?」
「珍しい客が来て、話しているうちに八尾の人間だとわかったと書いてるでしょう」
「うん」
「すると、おたね婆さんは、いや当時は婆さんではなかったおたねさんは、その客を初めて見た時珍しいと思ったことになります」
「それは、文が前後しただけで、八尾出身とわかったので、珍しい客と言ったんだろう」
「そうかも知れません。しかし、そうでないかも知ればい。初対面の瞬間、珍しいという印象をもって、それを素直に手紙に書いたとも考えられますよ」
「初対面の印象か」
「そうです。その印象が強くて手紙に現れた」
「温泉だから、いろんな客が来るだろうが、会った瞬間に珍しい客と感じるのは、どんな客だろうな」
「まず久しぶりに再会した人間なら、珍しいと言うでしょうね、しかしこの文面では、おたねさんとその客は初対面だったことがわかります」
「すると、どんな客だろう?」
「霧積にめったに来ない客ですね」
「非常に身分の高い人か」
「だったら、温泉の手伝いが気軽に話せないでしょう」
「すると」
「ジィニー・ヘイワード」
「君はジョニー・ヘイワード自身が霧積へ行ったと言うのか」
ジョニーに来日歴はなく、その当時彼は未だ生まれていなかったはずである。
これまでジョニーの“関係者”のセンで洗っていた。
「いや、ジョニーの関係者、つまり外国人が霧積へ来たとしたらどうでしょう」
「しかし、おたねさんの手紙は、八尾出身者だと言ってるぞ。八尾出身の外国人なんているかね」
「その外国人の同行者が八尾出身だったかも知れないじゃありませんか」
横渡は、幕を一枚取りけられた思いがした。これまで、ジョニーの関係者は、単数と考えていた。だが、単数である理論的根拠はなにもない。
「すると外国人と八尾出身の日本人が一緒に霧積へ来たというわけか」
「これならおたね婆さんも珍しいと思ったでしょう」
「ジョニーの関係者に八尾の人間がいる・・・」
「まだ断定出来ませんが、この手紙はそのように解釈出来ませんか」
「出来ると思うよ。だから、身許を知っているおたねさんの口をふさいだ?」
「ということは、八尾を洗われると犯人の素姓があらわれることになります」
「まだ、その珍しい客が、犯人とも、またその関係者とも決まったわけじゃないよ。要するに二十数年も前の古い葉書に書いてあっただけだ」
横渡は思考が短絡に流れるのを戒めた。
2021/10/15
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