~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
決め手の窃盗 (1-02)
谷井新子は、夢の中で動くものの気配を悟って目をさました。枕元に置いた腕時計の夜行文字をすかして見ると、午前三時を過ぎている。
── こんな時間に何の気配かしら?
たしかに何かの気配が自分の眠りをさましたのである。新子は闇の中で耳を澄ました。邸の中は、ひっそりと静まり返って、なんの物音もしない。今夜は、夫人が講演旅行に出ており、主人と娘が居るだけである。彼らもぐっすり眠り込んでいる様子である。
── やっぱり空耳だったのかしら?
新子は思いなおして妨げられた眠りへ戻ろうとした。その時闇の中でたしかにガサリと何か動く音がした。音はさらに忙しなくつづいた。狭い所に閉じ込められた小さな動物が走り回っているような音だった。
「なあんだ」
新子はいったん固くした身体から緊張を抜いた。気配は、この家で飼っている一番の縞リスのケージから来ていた。リスが夜遊びをしていたのだ。
「それにしても、こんな夜中に騒ぐなんて、変だわ」
べつの不安が頭をもたげた。家の中に忍び込んだ野良猫がリスを脅かしているのかも知れない。そうだとすれば、危害を加えられないうちに追い払ってやらなければ。── リスの保護も、彼女の仕事の中に含まれているのである。
新子は寝床から抜け出してガウンを羽織った。リスのケケージは、彼女が与えられた小部屋の隣りにある階段の下の三角空間に置かれいる。一階は、食堂、ィッチン、居間、応接室、ガレージなどがあり、二階に家人の個室がある。
新子が階段の灯をつけてケージの中をのぞき込むと、二匹のリスはプラスチックの小屋から飛び出して、ケージの中を8の字形に跳び回っていた。
「まあまあロメオとジュリエットったら、いったいどうしたのよ」
新子はびっくりしてリスの愛称を呼んだ。リスはひどく興奮しているらしい。こんな夜中にこのように激しく跳ね回っているのを見たのは、この家へ来てから初めてのことであった。周囲を見まわしても猫や、その他のリスを脅かすようなものはいない。
「さあ、早くお家へ戻って、おやすみ。安眠妨害よ」
新子がそっと手をさしのべると、ロメオがきゅっとかん高く鳴いた。
「本当にどうかしちゃったのね」
── これがさかりがついたということなのかしら?── ふと走った連想に新子は闇に中で頬をあからめた。その時また気配があった。だが今度はべつの方角からである。
「リスの盛り」とは異種の気配だった。
何かが炸裂さくれつしたような、それでいてくぐもった響きである。その音はさらに数回連続して追いかけて来た。リスがいっそう激しく暴れだした。
「何かしら?」
新子は、視線をリスのケージから新たな気配が来た方角へ転じた。それは溶質の隣に位置しているガレージの方から来ているらしい。
ガレージの中に泥棒が居るとは思わなかった。まさか車をガレージから盗み出そうとする者は居ないだろうと思った。
新子は、好奇心の強い大胆な娘だった。だからこそ、遠いつてを頼って、たった一人で上京して来たのである。
とにかく気配の正体を確かめないことには、今夜は眠れそうにない。家の中にはガードマンが居たが、うっかり彼を起して「枯尾花」のような正体だったら恥ずかしい。
ガレージには、いった家の外へ出ないと入れない。裏口から庭へ下りて、ガレージの前へ出ると、シャッターの隙間から時々、例の音ともに強い閃光せんこうが漏れる。きちんと閉めたはずのシャッターがわずかに開いている。その隙間から光がほとぼしっているのだ。ガレージにそんな光源はない。
新子は足音を殺してガレージに近づいた。隙間に目を押し当てて中を覗き込む。瞬間、目をかれた。新子はその時怪光が写真のフラッシュであるのを悟った。何者かがガレージの中に忍び込んで写真をっているのだ。
新子は一瞬我を忘れて、
「泥棒!」と叫んでいた。
仰天したのは、中に居た森戸である。ぐっすり眠り込んでいるらしい屋内の様子に油断して、証拠写真を欲張って撮っている最中に背中からいきなり切りつけられたようなものであった。
慌てふためいたはずみに、足許あしもとに置いてあった空の石油缶につまづいた。それはこのブロック全体を起こしてしまいそうなすさまじい音をたてて転がった。その音が新子をいっそう気負い立たせた。
「泥棒、強盗! 人殺しよ!!」
あらぬ罪まで押しつけられた森戸は、ますます動転した。まずいことに退路は新子によってふさがれた形になっている。他に逃げ道はない。
逃げ場を失った彼は、ついに車体の下にもぐり込んでしまった。新子の叫び声を聞きつけて、二階から主人と娘が下りて来た。
ガードマンが押っ取り刀で飛び出して来た。
「いったいどうしたのかね」
主人がれぼったい目をして聞いた。
「泥棒が、ガレージの中に居ます」
「泥棒が、ガレージから何を盗むつもりなんだ?」
「わかりません、でも誰か居ます」
ガードマンがガレージの中に飛び込んだ。森戸は簡単に車の下から引きずり出されて、ガードマンのたくましい腕に下に取り押さえられた。
その間に主人の娘が110番した。麹町こうじまち署は、目と鼻の先である。森戸は駆けつけた警官の手に引き渡された。
2021/10/20
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