~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
決め手の窃盗 (2-01)
森戸邦夫は、住居侵入の現行犯でそのまま麹町署に留置された。ところが、警察の取り調べに対して森戸は奇妙な事を言った。
すなわち、侵入された家の主、郡陽平の息子の恭平が、人をき逃げした疑いが濃厚なので、その証拠を掴むために車を検べていたと申し立てたのである。
犯行現場は都下K市の「鳥居前」、犯行推定日は九月二十六日午前二時ごろ、被害者の名前は小山田文枝と具体的なデータを列挙した。
なお、現場一帯は所轄署が捜索しているから照会すればわかるとつけ加えた。
たとえそれが事実であったとしても森戸の行為は少しも正当化されないが、「轢き逃げ」という犯罪を告発した形になったので、無視することも出来ず、一応K署に問い合わせが為された。その結果たしかにそのような訴えが小山田文枝の夫によって出されて「鳥居前一帯」を検索したが、轢き逃げの犯跡は発見出来なかったという事実がわかった。
森戸の供述は、まんざらでたらめではなかった。最初、森戸の背後に政治の軋轢あつれきや思想関係を疑っていた警察は、少し緊張をゆるめた。だが、K署は轢き逃げの証拠資料をまったく掴んでいない。要するに被害者サイドの疑惑があるだけで、轢き逃げの有無すら不明なのである。それを郡恭平の犯行と断定して、その自宅のガレージに忍び込んだというのは、乱暴である。森戸が申し立てた郡恭平を割り出した“素人推理”にもかなりの無理と飛躍がある。
その供述を信じて、郡恭平の車を検べるわけにはいかなかった。森戸の差し出したフィルムを現像したところ、たしかに車体に変形が見られたが、これが人身事故によって形成されたものかどうかわかtらない。恭平の父親は、政界の惑星で、警察としてもそれなりの配慮をしなければならない。
「小山田文枝の行方が未だに不明ななのが、何よりの証拠だ」と森戸は訴えたが、文枝の行方不明と郡恭平を結び付ける確たる証拠はなかった。
彼女は何か自分の個人的事情から姿を隠しているのかも知れない。郡恭平は現在海外旅行中であった。父親の陽平は、森戸に対して特に被害もないのだから、なるべく穏便にすましたいと申し出て来た。
警察では諸般の情況を考慮して、森戸を説諭するだけにとどめて、釈放することにした。彼の撮影したフィルムは没収された。
この事件を扱った麹町署にジョニー・ヘイワード殺害事件の捜査本部が置かれていた。
事情聴取のために郡家のお手伝いの谷井新子が署へ何度か呼ばれた。ふつうならしりごみみをするはずの警察に彼女は自分から積極的に出向いて来た。どうやら彼女はこの事件を面白がっている様子だった。
二度目か三度目に出頭しての帰途、彼女は署の廊下でばったり棟居とはち合わせした。
「あら刑事さん」
薄暗い廊下でいきなり派手な服装の若い女から声をかけられて、棟居は一瞬、人違いかと思って後ろを振り返った。
「刑事さん、私よ、いやねえ、もう忘れちゃったの」
彼女は確かに棟居の面に目を向けて笑いかけていた。
「ああ、君か」
棟居は彼女が八尾やおの駅前旅館の若いお手伝いだったのをようやく思い出した。
「すっかり様子が違っていたので見違えちゃったよ」
棟居は改めて相手を見つめなおした。濃い化粧と、八尾に居た時は自然のままに下げていた長い髪をソフトアイスクリームのように高くまとめあげた奇抜なヘアスタイルが、まったく別人のように見せている。ルバシカ風のブラウスに地面を引きずりそうなロングスカートを穿いている。どう見ても旅館のお手伝いではなく、その他大勢のタレントといったおもむきである。
2021/10/21
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