~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
決め手の窃盗 (2-03)
横渡は、谷井新子が八杉恭子の許に寄宿していることを聞くと、案の定、びっくりした。
「それで、どうでしょう、ジョニーが東京ビジネスマンホテルへ行ったのは、単なる偶然と考えていいのでしょうか?」
「うむ」横渡は一声、うなったまましばらく黙考していたが、
「どうだろう、思い切って八杉恭子に直接、当たってみては」
示唆した。
「直接、八杉に?」
「そうだ、霧積へ行ったことがあるかどうか本人に聞いてみるんだ」
「しかし、霧積へ行ったことがあったとしても、べつにおかしくはありませんよ」
「もし後ろ暗いところがあれば、霧積という地名になんらかの反応を示さないな」
「さあ、それはどうですかね、恭子が犯人なら、当然その程度の備えは立てていると思いますよ」
「恭子を犯人考えるのは今の段階では早すぎるが、犯人に仮定した場合、中山種を殺したのは、霧積を恭子が訪れたことを知っている唯一の人物だからじゃないだろうか。もしそうなら、霧積を知らないと答える筈だ」
「行ったことがあるのに、全然行ったことがないととぼけるかも知れないと言うわけですか?」
「霧積を訪れた八尾出身者となると、かなり数は絞られるはずだ。もし八杉がなんらかの形で、婆さん殺しにからんでいれば、霧積と自分を極力切り放したくなるのが、当然の心理だと思うがな」
「八杉は、なぜ谷井新子を自分の家に呼んだりしたんでしょうね?」
「というと?」
「八杉が犯人だとすれば、動機として八尾出身という身許を伏せたい意味もあったんでしょう。それなのに、八尾出身者を寄留させるのは矛盾していませんか?」
「新子は八杉に呼ばれたのではなくて、自分から遠い縁つづきを頼って押しかけたと言ったそうじゃないか。山中種は、ジョニー殺しとのつながりにおいて殺された疑いが強いんだ。婆さんは、ジョニー殺しの犯人について何かを知っていたらしい。その口を封じるのが主たる動機で、八尾出身の身許を隠すことは、犯行の結果がそのように見えただけかもしれない。それに、おたね婆さんとのつながりさえわからなければ、犯人にとって、八尾出身という身許がわかっても少しもさしつかえないのかも知れない。もちろん、これはジョニー殺しの犯人或いは関係者イコールおたね婆さんが霧積で会ったX、イコール八杉恭子という仮定に基づいての推測だがね」
「なるほど、そう言われてみれば家出同然にして押しかけて来た遠縁の娘を、八杉がむげに追い返せなかった事情もわかりますね」
「まあ今のところ、これだけのデータでは八杉をどうすることも出来なな。もう少し未知数を埋めないことには」
「ともかく八杉に直接当たって反応を見てみましょうか」
棟居も横渡の提案に傾いて来た。
「そうだな。そんな古い宿帳は残っていないと思うが、昭和二十四年七月、Xが泊まった当時の宿帳があるかどうか、霧積にももう一度当たってみよう」
「八杉というのはペンネームでしょうか、それとも結婚前の旧姓でしょうか?」
「雑誌の随筆かなにかで読んだように思うんだが、たしか旧姓の本名をそのままペンネームに使っている言っていたようだな」
「これも確かめる必要がありますね」
「少し見込み捜査がかかるね」
と横渡が言ったのも、八杉恭子にきな臭い匂いを感じているからであろう。客観的資料にみに基づかないで経験ある刑事のカンに頼る捜査が、犯人の逃跡トレールを猟犬のように正確にぎ分ける場合が多い。これは臨床経験豊かな医師が、現代医療機器による精密検査のデータに頼る前に、患者の顔色や体臭、触診などによって病状を正確に見分けるのに似ている。
「森戸とかいう住居侵入のセールスマンにもちっと引っかかることがあります」
「郡の息子がき逃げしたと主張しているそうだな」
「森戸の供述はまんざらでたらめでもなく、K署も一応現場を検索し、撮影された車にもなにかにぶつかったあとのような変形が見られるそうです」
「これがジョニー殺しに関りがあるとは思えないが、八杉の攻め口にはなるかも知れない、もし事実、息子が轢き逃げをしていればね」
ともかく二人は、糸の切れた後に、はなはだ曖昧模糊あいまいもことはしているが、一つの的を得たのであった。
2021/10/22
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