~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
巨大な獄舎 (1-02)
「それで、どういうことでございましょう?」
恭子は、むかかい合うなり腕時計をのぞいた。十分以上は割けないというジェスチャーを示したつもりであろう。
「それでは早速ですが、奥さんは、霧積という所をご存知ですか?」
この一問にすべてを込めるようなつもりで棟居は、相手の表情をうかがった。
「きりづみ」
だが、恭子の面に特に変化は現れない。
「群馬県にある温泉です。そこへ奥さん行かれたことはありませんか?」
「いいえ、いま初めて聞いた地名ですわ。群馬のどの辺にあるのですか?」
恭子の顔には、特に感情を抑えている様子も見えないが、売れっ子の家庭問題評論家として、職號的な表情の作為にれているのであろう。
「軽井沢の手前の横川から入ります。長野県との境に近い所にあります」
「全然、知りません。それがどうかしたのですか?」
「そこへ昭和二十四年七月に行かれたことはありませんか?」
「だって名前もいま初めて聞いたような場所へ行くはずがないでしょ」
恭子はさげすんだような目をした。
「奥さんはたしか富山県八尾町のご出身でしたね」
棟居は質問の鉾先ほこさきを少し変えた。
「よくご存知ですわね」
「なにかの随筆に書かれたのを読みましたので。ところで、その霧積に中山種という八尾出身の人が居たのですが、奥さんはその人を知りませんか」
「知るはずがないでしょ! さっきからなんですか。私が行ったことも、聞いたこともないと言っている土地に、どこの出身者がいようと、私には関係ないことですわ」
恭子が少し感情を露わにした。しかしそれもそのように見せかけたほうが自然だと計算した上でのことかも知れない。
「私、次の約束がありますので失礼します」
こんな馬鹿馬鹿しい話し相手はしていられないという態度を露骨に見せて、恭子は席を立ち上がりかけた。棟居はそれを引き止めるべき咄嗟とっさの口実に思い当たらなかった。
「奥さん」
今まで黙っていた横渡が突然、口を開いた。
「麦わら帽子の詩を知っていますか?」
「麦わら帽子?」
恭子が横渡の方へ不審の目を向けた。
「母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね? ええ、夏碓氷から霧積へ行く道で、渓谷けいこくへ落としたあの麦稈むぎわら帽子ですよ」
横渡は西条八十の例の詩を口ずさみはじめた。恭子の表情に変化が起きた。立ち上がりかけたままの中腰で硬直し、なにか信じ難いものを見つめたように見開いた目を横渡の面に据えた。
だが、それも束の間で、すぐ訓練された職業的なマスクに戻って、
「存じませんわ、そんな詩」と言い捨てると、「失礼します」と一礼して、そのまま立ち去って行った。恭子が去った後も、二人はしばらくその場に茫然ぼうぜんとして、彼女の去った方角に焦点のない視線を泳がせていた。ややあって二人は同時に我に返った。
「棟居君、見たか」
「見ましたよ」
彼らは顔を見合わせてうなずき合った。
「八杉恭子は、詩にたしかに反応したな」
「十分すぎる反応ですね。八杉はたしかに麦わら帽子の詩を知っている」
「知っていながら、知らないと言ったんだ」
「詩の中には霧積の地名も出てきます。彼女は霧積も知っていたのです」
「なぜそれを隠したのか?」
「くさいですね」
「くさいのはそれだけじゃない。最初きみが息子のことで聞きたいことがあると言ったのに、彼女は全然それについてたずね返さなかった。忘れたというのではなく、霧積をめぐる本命の質問に注意が集中して、そちらに考えをめぐらす余裕がなかったんだ。ふつうの母親なら、警察が自分の息子のことで来たというだけで、それに頭が集中してしまうはずだよ」
「そう言われてみると、八杉が席を立ち上がりかけたのは、横さんが詩を口ずさむ前でしたね」
「息子のことで来たと言う刑事に、母親がなにも質ね返さずに立ち去ろうとした。これは不自然だよ」
「我々から逃げようとしたととれます」
「まさに逃げ出そうとしたんだ。いや逃げたんだ」
彼らは、きれぎれの糸をたぐった末に、ようやくしっかりした的を引き寄せたような気がしていた。
だが、その的を射るための矢はまだ掴んでいない。
2021/10/24
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