~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
巨大な獄舎 (2-02)
新見は、森戸を帰した後、小山田と会った。
「奥さんを轢いたのは、まず郡恭平にまちがいありませんね」
「たったら、すぐに警察へ行きましょう」
小山田は気負い立った。
「それがだめなのですよ」
新見はその理由を説明した。
「熊のシミと、郡恭平の車の損傷を結び付けるものは何もありません。この写真にしても違法な方法で手に入れたものです。証拠能力を否定されて裁判に持ち出すことも出来ないでしょう」
「こんなに怪しいデータが揃っているのに、警察はどうして手を出せないのですか? 恭平の車を徹底的に検査して、文枝の髪の毛か血の痕でも発見できれば、動かぬ証拠になるじゃありませんか」
「それがそうは簡単にいかないのです。だいいち轢き逃げが実際にあったかどうかも不明なのですよ。我々が主張しているだけです。確たる容疑もないのに、私人の車を勝手に検査できません。まして恭平の父親は政界の実力者です。警察も慎重になります」
証拠はあります。熊です」
「あの熊が恭平のものだったとは証明されていないのですよ」
小山田は沈黙した。結局ここまでが私人の捜査の限界なのか。それでもよくやったほうなのである。新見の協力が無かったら、とてもここまで来られなかったであろう。それにしてもここまで迫りながら悔しい。
「新見さん、もう打つ手はないのでしょうか? 私も妻を轢いた犯人は、郡恭平に違いないと思います。ここまで来て引き返すのはなんとしても残念だ」
「残念なのは、私も同じです。しかし、今の段階では警察を動かすことは出来ません。秘密兵器の森戸も、これ以上使えませんし」
二人は無念の表情を見合わせた。思えば彼らの協力は奇妙である。妻を盗まれた被害者と、盗んだ加害者が、共有した女の体を原点にして、共通の敵を追跡している。だが今の彼らはそれを奇妙とも思っていない。愛する女を殺した犯人に向ける怒りと憎しみが、連帯するまでの経緯を忘れさせているのであった。
「そうだ、一つだけ、手があることはあります」
新見が目を上げた。
「ありますか?」
小山田がすがりつくように新見を見た。
「郡恭平に直接ぶつかってみるんですよ」
「恭平に? しかし彼は今ニューヨークへ行っているんでしょう」
「ニューヨークなんか一飛びですよ、毎日飛行機の便がある」
「しかし・・・・」
小山田の感覚では、いくら飛行機で一飛びと言っても、相当の距離感があった。
「彼が今海外へ行っているということは、一つのチャンスかも知れない。日本人の居ない所で熊を突きつけて問いつめれば、案外簡単に白状するかも知れませんよ」
「とは言っても、私はとてもアメリカまで追いかけて行けない」
小山田には独りで西も東もわからぬ異国へ犯人を追跡して行く自信もなければ、金もなかった。
「小山田さんが私に任せてくれれば、私が行きますよ」
「あなたが?」
「アメリカへは何度か行っています。ニューヨークなら知人も居るし、うちの支社もあります。土曜を挟めば、一、二日休みを取って行って来られます」
「新見さん、本気ですか?」
「こんなことを冗談で言いませんよ」
「あなたはよくそれほどまでに家内を」
「責任を感じているのです」
責任だけで動いているのではなかったが、それは夫に言うべき事ではなかった。
「いつ帰って来るかわからない恭平を待っているより、こっちから行った方がよいと思います。行くなら、早いほうがよい。恭平が白状したとき、補強証拠を車から見つけるためにも」
「夫の私には、何も出来ませんな」
小山田の口調には自嘲じちょうのひびきがあった。それは、夫として実質的に少しも動けない不甲斐なさを嘆いているのでもあった。
「何を言うんです。たまたま私の方が土地カンもあり、準備も出来ているから引き受けただけです。私は数次旅券も持っています。これからあなたが渡航手続きをするとなると、二週間はかかる。そんなことを気にしてはいけませんよ」
新見は、小山田の気分を引き立てるように言った。
2021/10/27
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