~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
巨大な獄舎 (3-03)
新見は、直ちに行動を起こした。東京─ニューヨークの間には毎日、飛行機の便がある。新見は、金曜日の午前十時発の日本航空アンカレッジ経由の便に乗った。アンカレッジまで約七時間、ここで一時間半ほど給油と機体整備のためストップし、さらに六時間飛行すると、ニューヨークである。
時差が十四時間あるので、同じ日の午前十時ごろニューヨークに着くことになる。
郡恭平の足取りは、森戸がつかんで来た。恭平の海外旅行を手配した旅行会社に手をまわいて、恭平の予約したホテルの名前がわかった。早速国際電話で問い合わせてみると、渡航後、二週間以上も経っているのに、まだ同じホテルに居ることがわかったのである。
新見が急いだのは、そのためであった。ホテルを出発されると、民間人が足取りを追うのは難しくなる。今のうちに追いかければ、ニューヨークで捕らえられるかも知れない。こうして取るものも取りあえず、飛行機乗った。
会社よりも、妻の手前を糊塗ことするほうに骨を折った。まさか妻に隠していた恋人の行方を追及するために海外へ行くとは言えない。日ごろ忙しく飛び歩いている身なので、妻は彼の急な海外旅行を疑ってもいなかったが、会社へ問い合わせされると嘘があらわれるおそれがあったので、情報蒐集しゅうしゅうの仕事で社内でもごく一部しか知らない出張だと偽った。
この際、彼の職性が大いに役立ってくれたわけである。
ニューヨークまでの機上で、新見は、この度の異常なまでの執着が自分ながら不思議でならなかった。どんなに愛し合っていたところで、可能性のない恋愛であった。自分は彼女のために、妻子と家庭を犠牲にするつもりはなかったし、相手にも夫を捨てられない事情があった。
当人同士にとっては、生まれて初めての「本当の恋愛」であったが、世間的には人目を忍ぶ不倫の情事以外のなにものでもなかった。
特に新見は、小山田文枝との恋愛において犠牲にしたものは何もなかった。人に妻を盗み、その熟れた美肉を存分にむさぼっただけである。
そのせめてもの罪ほろぼしか。そうだとすれば、新見らしくもない殊勝しゅしょうなことであった。これまでのすべて計算ずくの生きざまに徴してまことに矛盾した行動と言わなければならない。
要するに不倫とは言っても、双方、納得ずくの「おとなの恋」である。お互いに欲しいものを交換し合っただけだ。しかも相手はホステスである。媚びを売ることを商売にしている。夫も妻をその世界へ送り出す時、その種の危険は覚悟したはずであった。
それが、夫に頼まれたわけでもないのに、アメリカくんだりまで彼女の行方を探しに出かけて来た。この旅行は、新見にとってあらゆる意味で危険である。妻に旅行の目的を知られれば、家庭に派風が立ち、社長の信用も失ってしまう。いいことは一つとしてない。
それににもかかわらず、飛び出して来てしまった。だから、自分でもよく説明をつけられないのである。
だが新見は、いま自分に最も忠実に行動しているような気がした。中流の上の部類に属する家庭に生まれて、エリートコースに乗せられたから、なにか自分というものを見失ってしまったような生き方であった。
彼は常に一家のホープであり、両親から期待されていた。期待通りに一流校─一流企業の路線に乗ると、トップマネージメントのヒキを得て、期待は一段と加重された。
考えてみると、新見のこれまでの人生は、常に誰かに期待され、それを裏切らないための闘いであった。そして今まで決して裏切ったことはなかった。おそらくこれからも裏切ることはないだろう。
それは自分のための人生ではなく、他人のためにセットされた人生であった。だれかの期待に常に応えつつ、エリートの道を上りつめて行った果てに何があるのか?。
そんなことは考えてもみなかった。これは自分のための人生だと信じ込んでいた。その自信を揺るがしたのが、小山田文枝であった。彼女との恋に殉ずる意志はなかった。もはや恋に殉ずるためには、あまりにも多くの人生の荷物を身に抱え込んでしまった。
だが、文枝と共にあるときの心身の打ち震える喜びと、別れている間の空白感は、四十を過ぎた分別をも狂わせそうであった。
これまで他人のためばかりに生きて来たので、生まれて初めて、自分のために生きているような気がした。打算と、保身のわくの中での恋愛であったが、それはそれなりに真剣であった。もう二度とこのような恋はしないだろう。そういう恋の甘味だけをすくい取っていれば無難なのだろう、のめり込まなければ恋の甘さが醸成されないのである¥
ともかく、小山田文枝は、新見に恋の甘味と苦味、そして一定の枠の中ではあるが、自分に忠実に生きることの喜びを教えてくれた女であった。
その彼女が突然消息を絶った。自分の力の及ぶかぎり、彼女の行方を探したかった。いまや小山田の熱意と執着が、新見に乗り移った感があった。
ニューヨーク上空には午前十時半ごろ着いた。だがケネディ空港が混雑しているらしく三十分ほど空中待機ホールディングを命じられる。旋回する間、機窓をかすめるスモッグにかすんだ摩天楼の影は、機械文明の毒素に冒された巨大都市の死にひんした骨格のようである。海も黒く汚れている。東京湾と、京浜工業地帯の煤煙ばいえんにかすむ俯瞰図ふかんずとよく似ていた。
ようやく順番がまわってきたとみえて、機が下降の姿勢を取った。ホールディングは長かったが、降り始めたら早い。
すでに入国手続きはアンカレッジですましていた。預けた荷物もない。新見は身軽に空港に降り立つと、ターミナルビルの前から市内に向かうべくタクシに乗った。
まず、郡恭平の泊まっているはずのホテへ行って、彼らがまだ居るかどうか確かめなければならない。その上で今後の作戦を決める。新見の持ち時間は少ない。この一両日の中に恭平の首根を押さえなければならなかった。」
2021/10/28
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