~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
巨大な獄舎 (3-05)
恭平ではどうにもならないことがわかっていたので、路子がどんなメッセージが来ているか確かめに行くことになった。
── なにかのまちがいか、あるいはホテルの宿泊客に対する通達事項ノーテイスだろう ── ぐらいに軽く考えて、恭平はその間にシャワーを使うことにした。
ちょうどバスから出ると、路子が帰って来た。顔に血の気がない。
「どうしたんだ? まるで幽霊にでも出会ったような顔をしているじゃないか」
恭平は驚いた。見ると、彼女は小刻みに震えている。
「幽霊よ、幽霊が出たのよ」
「なにを馬鹿なことを言ってるんだ。いったいどうしたっていうんだ。しっかりしろよ」
恭平が声をはげますと、
「これ見て」
路子が手に抱えていたものを目の前に差し出した。それを見るなり、恭平も路子同様の表情になった。
「こ、これは!」
「そうよ、忘れる筈がないでしょ。熊よ、あなたの熊だわ」
それはたしかに、小山田文枝えおいた前後から行方不明になっていた恭平のマスコットの熊であった。子供の頃から手許てもとに置いて離さなかったから、間違いようがなかった。
「これがどこに?」
「フロントのメッセージ係の所よ」
「誰が持って来たんだ?」
「わからないわ、一時間ほど前に日本人の男が来て、あなたに渡してくれと言って、置いて行ったそうよ」
「たしかに俺にと言ったんだな。人違いじゃないんだろうな」
「何言ってんのよ、これはたしかにあなたの熊よ、あなた以外の誰に渡すというの」
「その日本人ってどんな男だったんだ。年齢とか、特徴はわかたないのか?」
「係は全然覚えていないのよ。これだけ大きなホテルですもの、特定の客を覚えているのは無理よ。そうでなくとも、アメリカ人の目には日本人はみな同じに見えるそうだから」
「誰が何のために持って来たんだろう?」
「わからないわ」
「路子、どうしたらいい?」
「私に聞いたってわからないわよ」
「路子、俺は恐いんだ。きっと誰かが追いかけて来たのに違いない」
路子の震えが恭平に完全に伝染して、彼は立っていられないほどであった。
「恭平、しっかりしてよ。熊を誰かが届けたからと言って、それでどうこうするってことじゃないでしょ」
「いや、これは何かの悪意があってしたことにちがいない。きっと事故を目撃した誰かが現場の近くで熊を拾って、俺を恐喝きょうかつするために持って来たんだ」
「恭平、あなた本当におかしくなちゃったの? ここはニューヨークなのよ。わざわざ太平洋を越えて恐喝に来る者がいると思ってるの? それにかりにそうだとしても、この熊をあそこに落としたとは限らないのよ。事件とまったく関係ない場所の落としたかも知れないじゃないの」
「いや、あそこに違いない。きっと誰かが見ていたんだ。俺はもうおしまいだ。どうしよう?」
恭平はすでに完全に動転していた。いまにも追跡者が手錠を構えて部屋に入って来るような恐怖に震えた。
「とにかくここには居られない」
「居られないって、どこへ行くの?」
「どこでもいい、ニューヨークから逃げ出すんだ」
「疑心暗鬼よ。届け主を見きわめてからでもいいじゃないの」
「それからでは遅い。君が行かなければ、俺は一人でも行くぞ」
「一人じゃどこにも行けないくせに」
「お願いだ。一緒に来てくれ。俺を一人にしないだとうね?」
今度は女にすがりつかんばかりに哀願した。
「もうこうなったら、一蓮托生いちれんたくしょうだわ、あなたと一緒にどこへでも行くわよ」
路子はふてくされたように言った。
2021/10/29
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