~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
救われざる動機 (2-01)
捜査会議の雰囲気は緊張していた。棟居が提出した八杉恭子という新しい容疑者をめぐって網が絞られているのがわかる。
「この西条八十の詩には、母を想う情が溢れるばかりに込められています。幼い頃母に連れられて旅をした渓谷の想い出に託して、母を慕っている。母子の間の感情がしみじみと胸に迫ります。この母子を、八杉恭子とジョニー・ヘイワードに置き換えられないでしょうか」
「何だって?」
棟居の途方もない意見に一同は、愕然がくぜんとした。
「つまり、ジョニーが八杉恭子の隠し子だったとしたら」
「しかし、ジョニーはその当時生まれていなかったんだろう」
那須が一同の疑問を代弁した。
「ジョニーの年齢はパスポート上に記載されていただけです。ジョニーの父親が生年月日を偽って届け出たか、あるいは届け出が遅れたのかも知れません」
「すると四十歳の八杉恭子は、十六歳よりも以前にジョニーを生んだことになるが・・・」
「八杉の公称年齢は、かなりサバをよんでいると思います」
「それでは、八杉に同行したいたと推測される外国人は・・・?」
「ジョニーの父親であり、八杉の当時の夫だったと思います」
「なにかの事情で、ジョニーだけが父親に連れられてアメリカへ帰った」
「そうです。そして二十数年経ってから母を訪ねて、日本へやって来たのです」
「そのときの八杉恭子の驚きは大変なものだったろうな」
「大変などというものではなかったでしょう。郡陽平は、むろん妻にそんな過去があることは知らないと思います。夫に知られたら、まず許してもらえないでしょ。天下の郡陽平夫人が、若い頃黒人と交わり、子供を産んでいた。その黒人と正式の婚姻関係を結んでいなかったことは、戸籍を見れば昭還す明らかです。となると、彼女の当時の暮しぶりもおおかた想像がつくというものです。夫の怒りをかう前に、いまを時めく女流評論家の八杉恭子に黒い隠し子がいたということだけで致命傷です。マスコミの寵児ちょうじが、これまで味方だったマスコミから袋叩きにされるでしょう」
「八杉恭子がジョニーを殺したというのかね?」那須の眼光が鋭くなった。
「その疑いは濃厚だと思います」
「しかし、もし君の推測のとおりなら、母親がわが子を殺したことになるぞ」
「わが子といっても、幼い頃別れたままで、しかも黒人の血が混じっているジョニーに、果たして親子の情がいたでしょうか? いきなり子供だと名乗られても、八杉としては実感がなかったのではないでしょうか。むしろ自分の家庭や社会的地位を根本から破壊する呪わしい“出現物”として憎しみを向けたかも知れません」
「西条八十の詩と、“八杉母子”の間には、どんな関係があるんだ?」
「麦わら帽子の詩は、霧積温泉が弁当の包み紙やパンフレットに戦前から刷り込んでいたそうです。親子三人で霧積へ旅行したとき、この詩が、八杉の目に触れたのだと思います。彼女はその詩が気に入り、夫や息子に意味を訳して教えた。これがウィルシャーの心に残り、ジョニーだ成長した後、“家族三人”で行った想い出の土地の詩として、改めてジョニーに教えたのでしょう。ジョニーにも、幼い日のおぼろげな記憶として、母の面影と一緒に霧積が残っている。改めて父から教えられた麦わら帽子の詩を母親の形見のように抱きしめて、日本へやって来たのではないでしょうか」
「詩集は、どういうことになるのかな?ジョニーがタクシーの中に西条八十の詩集を置き忘れたと思われるが」
「八杉恭子が霧積から帰って、買い与えたものかも知れません。そうだとすれば、この詩は、言葉どおり母の形見です」
まぶたの母を訪ねて、アメリカから日本へ来たとは泣かせる話しだが、その母親に殺されたとは、これまた残酷なことだな」
「八杉には、二人の日本の子供もいます。彼らも、尊敬している母親のまわしい過去と、隠し子があることを知ったら、いい気なショックを受けるでしょう。今の地位と家庭を守るために、一人のアメリカの混血の子を殺した」
一同は棟居が展開した意外な推理に暗然として言葉を失った。これはいかにも救いのない犯罪であり、その動機であった。
「たしかに八杉恭子の情況はかなり怪しい。しかし、決め手がないな」
ため息と共に言った。霧積を訪れた「親子三人連れ」も、、単なる憶測おくそくにすぎない。ましてやその中の八杉恭子が居たという証拠はなに一つない。
西条八十の「麦わら帽子」の詩に反応を示しながら、霧積を知らないと言い張ったのが最大の怪しい情況であるが、たとえその詩の中に霧積の地名が出てきていても、詩というものは、全部まる暗記しているとは限らない。たまたまその中の一節か一句しか覚えていない場合もあるのである。
中山種が大室よしのに宛てた葉書の中の「同郷の人間」が、八杉恭子だる根拠はなにもない。棟居の推理はこの人物Xを八杉とするちころから発している。たまたまその上に組み立てた推理が、散在していたいくつかのデータにうまく当てはなるところから、八杉の疑惑が濃厚になった感があるが、まさにこれは捜査本部の主観にすぎなかった。
「八杉のナリバイと、過去を洗ってみましょうか?」
山路が那須の顔をうかがい見た。
「そうだな」
那須はなんとなく煮えきらない。
「しかし今の段階では、八杉にアリバイがなくても、どうすることも出来ませんね」
河西が口をはさんだ。アリバイが問題にされるのは、もっと容疑が濃縮されたからである。事件に関係ない人間のアリバイがなくとも一向に差し支えない。容疑者が罪を犯したと疑うに足りる資料を警察側が集めた後で初めて、容疑者側にその容疑を晴らすための証明責任が生ずる。証拠も集めないうちに相手をクロと見なして(警察の主観から)いきなりアリバイをたずねるわけにはいかない。それを調べるにしても、側面からいかなければならなかった。だがここに意外な方面から新たな事実が浮かび上がった。
2021/10/31
Next