~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
救われざる動機 (2-02)
棟居が捜査本部に出勤すると、署の受付が、彼に面会人があることを告げた。警察官への面会人は、ほとんど事件関係者である。特になにかの捜査に係わっている時は、その種の面会人が多い。しかしこんな早い時間というのは珍しい。まだ本部には誰も来ていないだろう。
「若い女の人よ、棟居さんもなかなか隅におけないね」
署の受付にひやかされても、棟居には心当たりがなかった。面会室へおもむき、立ち上がった人物を見て、棟居は思わず、
「ああ、君は・・・」と声を上げた。
八尾やおの谷井新子がぴょこんと頭を下げて、舌をちろりとのぞかせたのである。
「こんな時間に、いったいどうしたんだい? まだあの事件に引っかかっているのか」
棟居はたずねた。
「ごめんなさいね、突然おじゃまして。私、お払い箱になっちゃったの」
「お払い箱?」
「八杉先生のとこ首になっちゃったのよ」
「首にされたって? またどうして?」
「それがよくわからないの。でもどうやら、この間のことが先生の気に入らなかったらしいのよ」
「この間のことって、べつに君が悪いことをしたわけじゃないだろう。むしろ警察に協力して、住居侵入犯をつかまえたんだ」
「それがいけないらしいのよ。安易に警察沙汰ざたにしたのが、先生の逆鱗げきりんに触れたのよ。八杉先生と警察のイメージが結びつかないんですって」
「しかしあのときは旦那だんなも居たんだろう」
「なにもこちらから出頭してべらべらしゃべることはないんですって」
「それでクビになったわけか」
「そうなの、もっとも、初めから正式に愛用されていたわけじゃなかったの。こっちが勝手に押しかけてずるずる居坐いすわったので、いつ追い出されても、文句を言えないのよ」
「しかし、急に追い出されたら困るだろ。どこか行くあてはあるのかい?」
棟居は改めて、新子を見た。先日会った時と同じルバシカ風のブラウスとロングスカートを着けている。ちがうのは手にスーツケースを二個提げていることである。先日は、わずかな間に都会の水に磨かれたと驚いたものだが、今日は勤め先をしくじったという先入観があるせいか、みずぼらしく見えた。
こんな娘を、行く当てもないまま東京の喧噪けんそうの中へ送り出すのは、裸の羊を狼の群の中へ追い込むようなものだろう。
「ええ、郡先生が気の毒に思ってくれたらしく、その後援会本部で働くことになったのよ」
「郡陽平の後援会というと、新宿のホテルの中にある・・・」
「ええ、そうよ。お部屋もそのホテルの中に取ってもらったの。私もその方が気楽でいいわ。それで、今日はお別れを言いに来たのよ。新宿へ行ってしまうと、わざわざこちらへは来られなくなるでしょ」
「そうか、それはわざわざご丁寧に。すぐに行く所があってよかったね」
「ほんとよ。私、奥さんから出て行けと言われた時、どうしようかと思ったわ。いまさら八尾へは帰るわけにはいかないし、私、学ならずんば死んで帰るの意気で出て来たのよ」
棟居はあえて訂正せずに、
「その意気は大いに結構だが、いったい何を勉強するつもりなんだ?」
と聞いた。
「いろいろあるわよ、まず広い社会を見て、見聞を広めるの。私、若いんだもの、これから沢山のことをやってみるつもりよ」
「若いうちに出来るだけ沢山学ぶのは、いいことだが、自分を大切にすることを忘れてはいけないよ。若い頃って二度とないんだからな」
棟居は言いながらも、自分の言葉がつい説教じみたのえお悟って、くすぐったくなった。言葉の裏で、この女、まだ処女だろうかと、ふと思った。
「わかってるわよ、そんなこと。私だって、一度しかないものは大切にするわ」
谷井新子は、棟居の心の内を見透かしたような口調で答えた
2021/10/31
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