~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
落ちた目 (1-01)
ふもとの村が近づくにつれて、チャンスが逃げて行く。先へ行けば、もといい場所があるかも知れないと、何度もあった機会を先へ繰り越しているうちに、道は下りにかかって、しだいに開けた感じになってくるようである。
「なんだか下りてしまうのが、惜しいようない道ね」
川村の下心も知らないで荒井あらい雅代まさよは、無邪気に言った。
「それなら、この辺で少しやすんでいこうか」
川村は周囲をうかがいながら誘いの言葉をかけた。あまり密度の濃くない杉の植林帯である。理想的な場所とは言えなかった。しかしこれ以上、下りてしまうと、村里が近くなって、チャンスを永久に失ってしまいしうだった。
ここまで誘い出すにも、ずいぶん苦労したものである。もう二人だけでハイキングに来ることもあるまい。来年は二人とも卒業である。川村は二流所の会社ながら、就職が決まっている。雅代も見合いの結果、縁談がまとまり、卒業を待って結婚することになっている。
このハイキングも相手方に知られるとまずいので、グループで来たことにしてある。川村と雅代は、ともに東京のある私大の学生である。同じクラスであっただけでなく、クラブ活動として入部した「旅行研究部」で、四年間一緒にやってきた。
研究旅行と言っても、なにも専門的な勉強をわけではない。旅行好きの学生たちが寄り集まって旅行をするだけである。いちおう「マスツーリズム時代のおける旅行業界の動向」とか、「旅に出て自分を考える」などともっともらしい口実をつけているが、おおかたの魂胆は、女子学生と一緒に旅行することにある。
こういうクラブにでも所属しない限り、学生の身では、女性と共に旅行する機会がない。女子学生もまた周囲もクラブ活動としての「男と一緒の旅行」に抵抗を感じない。親も、「クラブ活動」ということで安心する。
荒井雅代は、その現代的な美貌びぼうと、均斉のとれたプロポーションで、旅研のアイドル的存在であった。部員は、少なくとも年二回クラブ活動としての旅行に参加することを義務づけられており、その他各部員が個人的に企画する旅行自分の意志で参加する。
クラブの主催旅行、または個人旅行たるを問わず、雅代が行くとなると、男子学生の参加者が増える。
また個人旅行の場合は、雅代の争奪戦が繰り広げられる。雅代が参加する時は、その出発駅に大勢の男子部員が見送りに駆けつけるほどの人気者であった。
男子部員の間では、抜け駆けの功名を戒め合う黙契もっけいのようなものができていた。
こんな中で、川村一人が雅代にいつも近い位置に居られたのは、同級というもう一つの共通項があったからである。雅代と同級は彼しかいない。したがって部にいない時でも、クラスで彼女と一緒に居た。雅代はクラスでもアイドルであった。クラスでは、同じ部員ということで男のクラスメートよりも、彼女に一番近い所に居た。
雅代の方では、それほど意識していたわけではないのだろうが、川村は彼女との「二重の共通点」を最大限に利用した。
そのために、部員も、クラスメートも、川村には雅代に対する一歩の優先を認めていた。優先といっても、雅代からほかの者よりも特別な恩典を許容されたわけではない。彼が雅代に対して他の者より親し気に振舞っても、川村ではしかたがないと黙認している程度の優先である。それでも川村にとっては、貴重な優先権であった。
彼は在学中にこの特権をフルに使って、雅代の参加する旅行には、ほとんど尾行いて行った。自分の企画した個人旅行にも、強引に誘った。
部員たちには、彼女の“独占”は避けようという暗黙の了解が成っていたが、川村だけは例外であった。また雅代も、特別な感情があったわけではないが、二重の共通項のある川村に近親感をおぼえたらしく、一緒に旅に出る機会が多かった。

2021/11/04

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