~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
落ちた目 (1-02)
「四年間の青春」はまたたく間に過ぎた。雅代と川村は依然として仲の良い友達であった。男女の間の友情は、なにもないのに等しい。特に一方的に異性としての感情をささげている側にとっては、まったく無視されているのと同じであった。男、あるいは女でありながら、中性として扱われる。
雅代に対する川村の立場がそうであった。なるほど彼女は川村を信用していた。だから旅行へもよく一緒の行った。だがそれは彼を男として見ていないからである。男ではないから、どこへでも安心していて行けるのである。
四年も友達として付き合って来ながら、手一つ握れないのも、そのためであった。川村が雅代に対して野心を持っていなければ、それでもよい。しかし野心がないどころか、好きでたまらなかった。秘めた片想いであったが、誰よりも激しく恋していた。
それでいて、一度も自分の気持を表明出来なかったのは、あまりにも「仲の良い友達」になりすぎてしまったためである。男女の間というものは、初めのきっかけを逃すと、なかなか、男と女の仲になれない。「良い友達」がいまさらてれ臭くて、恋の告白は出来なくなる。無色無臭の中性的友人から、生臭い性の匂いの立ち込める仲にはなれないのである。だが、それにしても雅代ほどの女の身近に四年間も居ながら、手一つ握れなかったとは ──。
川村は、我ながら情けなかった。雅代は、川村をボディガードに利用して来たような節が見える。川村がそばに居たので、他の男たちの野心を封じ、「旅研のプリンセス」としてちやほやされながら、青春の楽しい部分だけを危険を冒すことなくすい取った。
そして彼女はいま青春を満喫して、女としての新しい人生に出発しようとしている。

彼女の夫となるべき男は、東大出身の一流商社のエリートだそうである。結婚した後は、川村のことは「青春の中性的友人」として速やかに忘れてしまうだろう。
「要するに、俺たちは雅代を無傷で将来の夫に送り届けるための青春のお守り役だったわけだ」
川村たちは、雅代が婚約したニュースを聞いた時、仲間同士で口惜しがった。
「これは一種の食い逃げだな」
雅代に熱くなっていた一人が洩らした言葉が、見事に一同の心情を言い当てていた。
彼女は旅研の王女として部員の憧憬どうけいの中央にすわっていた。王女としての愛嬌あいきょうを皆に公平に振りいた。それが卒業と同時に、青春と結婚は別よとばかりさっさと人生の線路を乗り換えてしまう。
雅代を取り巻いていた男たちは、どんなに熱い憧憬を抱いていても、まだ経済力が伴わない。就職すら満足に決まっていない身分で、おそれ多くて王女にプロポーズなど出来るものではない。
また雅代の方でもちゃんとそれを見透かしているかのように、王女が安サラリーマンの初年兵のもとなどに“降嫁”出来ないとばかりに、東大出のエリートの所へ行ってしまった。春時代の遊び仲間と、自分の生涯を託すべきベターハーフを切り放した見事な計算と言えば言えた。
「そうはさせないぞ」と秘かに心に決めたのが、川村である。雅代が自分たちの仲間の誰かに“降嫁”するのだれば、嫉妬しっとはおぼえても許せる。
しかし、青春の仲間をお守り役として切り放し、エイートの所へ嫁いで行く打算は許せない。女として、安定した危なげのない生活を求める気持はわからないでもない。だが、結婚の対象を、川村たち以外の所に求めたのは、それだけ彼らに男としての生活能力を認めていない証拠ではないか。
青春の多感な一時期を分かち合った仲間をなんの未練もなく切り捨て、一度か二度見合いしたに過ぎない相手に、ただ単に彼がエリートで、安定した生活の期待があるという理由だけで、自分のこれからの人生を簡単に託す女のさかしらな計算が憎かった。
── 東大出のエリートといったところで、たかが知れているだろう。エリートなんて人生の目的を出世だけに据えた退屈な人間が多い。そんな男の許へレッテルだけに惑わされて身売りするのは態のいい売春と同じだ。──
「どうせ身売るするなら、その前に俺が」
くだらないエリートの細君にするための守り役にされてたまるかという意識から、雅代をさりげなく「二人だけのハイキング」へ誘った。
「学生時代の最後の記念に二人だけで行きましょうか」と乗って来た。川村と二人だけで行くことをまったく警戒していない。それだけ川村が男として無視されている証拠であった。初めにちょっとためらったのは、婚約者に対するおもんばかりがあったからだ。たとえ中性的友人であっても、男と二人だけでハイキングヘ行ったことが、縁談の相手に知れてはまずい。
2021/11/04
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