~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
落ちた目 (1-03)
ともあれ、雅代は、川村の危険な下心も知らず、まったく無警戒に従いて来た。これまでにも二人だけで日帰りの旅行へ出たことはあるので、雅代は安心しきっていた。
川村が誘った場所は、奥多摩の浅間せんげん尾根であった。標高八百メートル前後の低い尾根のつらなりで、女子供向きのコースであるが、交通の便が悪いので人気が少ない。夕刻にはまったく人通りが絶えて、川村の目的には絶好の場所となる。
川村は、この山域に雅代を誘い込んで思うさま犯してやるつもりであった。どんなに泣き叫ぼうと人の来る恐れはない。いったん犯してしまえば、彼女が訴え出るような愚かな真似は決してしないことはわかっている。そんなことをすれば、傷つくのは彼女の方である。逃げられないと悟れば、抵抗もしないかも知れない。二人だけの秘密として、口をぬぐって平然と嫁いで行くだろう。
結婚に当たってこれだけ見事な計算をした女だから、「青春の秘密」として、むしろ喜ぶかも知れない。青春の食い逃げはしそこなったものの、それならそれで、貴重な経験をしたことになるのだ。
午後の遅い時間を選んで来た山道は、案の定、まったく人影はなかった。この尾根からの展望は、最も奥多摩らしいものとして定評がある。かなたの樹林の中か、こちらの灌木の斜面かと、川村が危険な物色をしているとも知らず、雅代は、よく晴れた展望に素直な歓声をあげ続けていた。
だが獲物がわなの中に飛び込んで来ているのに、なかなかきばを突き立てるきっかけをついかめない。相手が無心なだけに、牙を剥くのがためらわれた「。
ためらいながら歩いているうちに、コースはいつの間にか終わりにさしかかっていた。
── もうこれ以上、猶予は出来ない ──
ついに最後の決断をした川村は、下山道にさしかかった杉の植林の中へ彼女を誘った。
これまでにもっといい場所があったが、先へ行くほどに、場所は得難くなりどうであった。
「向こうに、沢の音がするよ」
川村は、林の奥の方へ誘導した。
「私、のどかわいていないわ」
「きれいな沢の水で顔を洗えるよ」
「そうね、だいぶ汗ばんじゃったわ:」
雅代は、深く疑わずに川村の後に従いて来た。
「ああ、ひんやりしていい気持」
沢の近くに腰を下ろして、雅代は木もれ日に目を細めた。まだ太陽の位置は余裕があったが、そろそろ赤みかっかってきている。
── 今だ。今を置いてない ──
川村は、この期に及んでも揺れているためらいをねじ伏せた。
「雅代さん」
呼びかけた声がうわずっている。
「なあに?」
雅代が顔を向けた。
「ぼくは、君が好きだ」
「あたしもあなたが好きよ」
雅代は、川村の「好き」という意味を取り違えている。
「前から君が欲しかったんだ」
「また、いきなり何を言い出すのよ」
雅代は笑いだした。まったく彼を対象にしていない笑い方だった。
「だから、君をくれ」
「冗談はやめてよ」
「冗談じゃないんだよ」
川村はすっと立ち上がった。
「川村さん、まさか」
雅代の顔から笑いが消えた。だがまだ恐怖や不安はない。中性と信じていた相手が、いきなりオスの牙を剥いたのに、当惑している表情である。次の瞬間、川村は雅代にとびかかった。男の腕力にかけて、女の体を大地にねじ伏せようとした。
「お願い、やめて!」
恐怖が目覚めた。
「黙っていれば誰にもわからない。君を僕にくれ」
「いやよ、そんな獣みたいに、やめて、だれか、たすけてえ」
雅代は必死に抵抗しながら、叫んだ。川村は思いもかけない強い抵抗にあって、少したじろいだ。これまでの“友好関係”の実績から見ても抵抗は最初だけで、すぐに迎え入れられると都合のいい計算をしていたのが、見事に外れた。
「よして! お願い。私、お嫁に行く体なのよ」
「それがどうしたってんだ。一度や二度許したからって、どうてことはねえだろう」
女の抵抗が、男の凶暴性をかき立てた。誰のために守る純潔だというのか? 自分を出来るだけ高値で売りつけるための純潔など、うす汚い商算と同じではないか。
川村は相手に憎悪をおぼえた。憎悪が行動に拍車をかけ、蹂躙じゅうりんを容赦なく進めて行く。
男と女の闘争が続いた。このまま時間が経過すれば、体力の差が決着をつける。現にその差が、女にとって絶望的な状態をつくりつつあった。
「痛っ!」
突然、川村が悲鳴をあげた。雅代が必死の抵抗の中で男の腕をおもいきりんだのである。歯形が残り、血がにじんだ。あまりの痛さに彼の腕の力がゆるんだ。
雅代はそのチャンスを逃さなかった。一瞬、ひるんだ男の体を突き飛ばすと、方向も見定めず勾配こうばいにしたがって一目散に逃げ出した。道に迷う事など恐れていられなかった。山はそれほど深くない。下って行けばいずれは人里へ出られるだろう。雅代は、樹林の間を、みちゃめちゃに駆けた。いばらが身体を傷つけるのも全く感じなかった。
前方の灌木の繁みの中でなにかが動いた。彼女の駆けて行く気配で、黒い影がパッと四方に散った。からすであった。一瞬ぎょっと立ちすくんだものの、後方から川村の追って来る気配が迫る。彼女は、灌木をかき分けた。だが、次の瞬間殺されるような悲鳴をあげて、いま逃げて来たばかりの、男の追いかけて来る方角へ向かって駆け戻ったのである。
2021/11/04
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