~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
落ちた目 (2-01)
「ネタは全部あがってるんだ」と新見にすごまれたとき、恭平は視界がすーっとかすんだような気がした。周囲の光景がみな一様にかすみがかかったよいに輪郭を失い、二位もの声だけが耳の中で反響している。車の解体作業が素人には難しいために、一日延ばしに延ばしていたのが命取りになったのだ。
もはやここまで追い詰められては、逃げ路はない。まさかニューヨークまで追って来ようとは思っていなかった。
── 郡陽平と八杉恭子の長男が通行人を轢殺れきさつした後、死体を山中に埋める ──
── “母子通信”の模範家庭に秘かに進んでいた病蝕びょうしょく ──
こんな調子の新聞の見出しが頭の中に明滅した。
自分がだめになるだけでなく、母の名声は地に落ちる。父の政治的生命にも影響を当たるだろう。両親を軽蔑けいべつしながらも、彼らの庇護ひごがないことには何も出来ない自分がよくわかる。
全てを失った後、自分は無一物から出発する生活には耐えられないだろう。貧乏は嫌いというより、生まれてから、それに触れたことがない。もの心つくころから、豊かな物質的環境の中にいた。欲しいものは、すぐに与えられた。物質に関する限り、欲求不満というものを経験したことがなかった。
それが突如としてすべてむしり取られようとしている。恵まれた環境を奪われるだけでなく、囚人として犯した罪の責任を償わなければならない。
世の中の一切の美しいもの、楽しいもの、美味なもの、快適なものから遮断されて、プライバシーの全くない暗く非衛生な獄舎につながれる。考えただけで、背筋を寒気が走った。
いや刑務所へ行けるくらいならまだいい。罪質の重大さから、もしかすると、死刑になるかも知れない。
─ ─死刑 ── かつて映画で見た電気椅子や絞首台のシーンがまぶたに浮かんだ。それが現実の光景と重なり合って、区別がつかなくなった。
「さあ、一緒に来るんだ」
新見が勝ち誇ったように言っていた。
── 捕まってたまるか ── という気持が、胸の奥から衝き上げて来た。
ここは日本ではない。アメリカなのだ。追って来たのも、どうやら一人のようだ。逃げてやる。命の続く限り逃げてやるぞ。思うと同時に行動を起こした。恭平は身を翻した。新見も油断していたわけではないが、女を残して自分一人だけ逃げ出すとは思ってもいなかったので、虚を衝かれた形になった。
追跡の態勢に入るまでに一呼吸の遅れがあった。その間に恭平はホテルの広いロビーを横切り、玄関出入口の方へ走っていた。出入口は二重になっている。これは空気調整している館内に外気を直接入り込ませない設計である。外側への開口部は回転ドアとなっており、ロビーとの仕切りは、素通しのガラスに自動ドアが取り付けれれている。
逃げ出した恭平は、外へ連絡する回転ドアしか見ていなかった。折しも外から数人の客が回転ドアを押して館内へ入って来たところであった。
恭平の目の焦点は、回転ドアに据えられていた。焦点深度がきわめて浅くなっていた。彼はその途中に素通しの自動ドアがあることを忘れていた。ガラスのような透明な仕切りによく生ずる錯覚である。
逃げることだけに頭が集中してしまった恭平は、自動ドアに凄まじい勢いで突っ込んで行った。ドアは恭平の接近を感知して開きかけたが、彼のスピードに追いつけなかった。
ドーンという鈍い音がした。厚い素通しのオートドアによって、挙兵は弾き返された。速度のついていた分だけが、反作用となって、彼の身体に衝撃を与えた。
一瞬、衝撃のショックで恭平の意識はかすみかけた。何事かとロビーに居合わせた者が視線を集めた。ホテルの従業員が駆けつけて来る気配がした。
その気配に恭平はいったん立ち上がりかけたが、視野が急激に暗くなり、今度は本当に意識を失った。
うすれていく最後の意識の底から、恭平は失ったコンタクトレンズを早く入れておけばよかったと痛切にくやんだ。
彼の目はひどい近視だった。めがねを嫌い、コンタクトレンズを入れていたのだが、それを出先でとりはずしたはずみに失ってしまった。早く新しいのを作らなければと思っているうちに、あの交通事故を起こしてしまったのだ。
もしコンタクトレンズを入れてさえいれば、あの痛ましい事故は防げたかも知れないのである。
そして今は自業自得の厳しい罰をうけた。レンズを失ってぼやけた視野の中に、突如現れた追跡者に動転して、素通しのガラス仕切りにもろに突っ込んでしまった。透明な空間から突然激しい拒絶を受けた恭平は、世の中から自分が拒絶されたように感じたのである。
2021/11/09
Next