~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
人間の証明 (1-01)
八杉恭子のアリバイの裏付けが取られた。今度の場合、八杉本人の言葉のウラを取るのではなく、谷井新子が調べてくれた、十月二十一日の高崎市での八杉の行動を徹底的にチェックするのである。
高崎市に再び出張したのは、棟居と横渡の二人であった。ここは霧積へ行った時、その往復に通過した都市である。
ホテルは、高崎城跡の南側の高崎公園の中にあった。鳥川のほとりたで、上信越の山岳の展望がよい。
ここへ来て、二人は奇妙な事実を発見した。八杉恭子ほどの有名タレントが来たのであるから、ホテルの従業員の印象は強いと思っていたのが、案に相違して、ほとんで誰も覚えていないのである。
刑事らが逆に八杉恭子が来たのかとたずね返されたほどであった。ようやく恭子の泊まったという部屋のフロアを担当したメードの一人が、
「ああ、やっぱりあの人、八杉恭子だったのね」
とそれらしい反応を示した。
「君が係だったのか?」と質ねると、
「ええ、私、八杉恭子に違いないと思って、サインを頼むと、人違いだと言って、逃げるように行ってしまいました。ヘアスタイルとサングラスで様子を変えていましたけど、たしかに八杉恭子に間違いなかったわ。どうしてあんな“変装”をして身許みもとを隠しているのか、不思議に思ったのよ」
「八杉恭子と宿帳に書いていなかったかい?」
「あもときは郡先生とかいう代議士が代表者になっていて、他随行何名という形で一人一人のお名前はいただきませんでした」
「すると八杉恭子が来たことは、ほとんど知られていないんだな」
「私も、サインをもらいに行った時、けんもほろほろだったので、本当に人違いかなと思いかけたほどです」
「すると、八杉恭子はいったい何のために旦那だんなに従いて来たんだろう?」
二人の刑事は顔を見合わせた。彼女が夫の地方遊説へ一緒に来たのは、「八杉恭子」のネームヴァリュウによって夫の援護射撃をするためではなかったのか?
それが名前を隠してしまったのでは、何のために一緒に来たのかわからない。八杉恭子が来たことを知っている者はホテル内部だけでなく、市中にもほとんど居なかった。もちろん夫の講演に応援弁士としても出ていない。
郡陽平を呼んだ地元の講演関係者にも会ったところ、八杉が一緒に来ることは予定になかったそうであった。それが突然一緒に現れたのでびっくりしたが、今度は妻として私的に従いて来たので、応援演説はしないと言った。関係者の中にすら、彼女が来たことを知らなかった者がいたほどである。
「妻として私的にねえ・・・」
横渡が憮然ぶぜんとしてあごをなでた。八杉恭子ほどの売れっ子が夫の講演に一緒に来て、ほとんど隠れ通していたのである。地方では東京ほどに八杉恭子が郡陽平の妻であることは知られていない。だから、隠れようと思えば隠れられる。
結局、八杉恭子は高崎へは来ていたものの、、そこでの行動はかいもく不明だった。つまり霧積へは行かなかったという証明は得られなかったのである。彼女が高崎へ来たことは、谷井新子が探り出した事務所の内部記録だけで、高崎における足跡はほとんど残されていなかった。
2021/11/10
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