~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
人間の証明 (1-02)
八杉の経歴も洗われた。昭和二年十月三日八尾町の旧家に出生、小学校の成績が抜群によく、先生から勧められたので親もその気になり、卒業後、東京の親戚しんせきに寄留させて、セント・フェリス(当時は『聖信』)大学の附属女学院へ進学させた。
戦火が激しくなったので、いったん帰郷したが、終戦後、復学のため再度上京。だがこれから昭和二十四年十月に帰郷するまでセント・フェリス女学院にも復学していない。
生家の方には就職したという連絡が来たが、具体的にどのような職業に就いたのか、全くわかっていない。すでに恭子の両親が死亡しており、生家は彼女の弟が継いでいたので、詳しい滋養はわからないが、両親は恭子の言葉に全幅の信頼を寄せていた様子だったという。
当時の混沌こんとんとした世相の中に若い娘が独りで破壊され尽くした東京へ出たのであるから、かなりの冒険だったはずであるが、恭子には後日マスコミの寵児ちょうじとして、ハッタリで世渡りするだけあって、その素地となるべき度胸があったのであろう。
その後、昭和二十六年六月、郡陽平と結婚して、現在に至るというものである。ウィルシャーと関りを持ったとすれば、終戦後再上京してから帰郷するまでの約四年間であるが、その消息は全く残されたいなかった。
郡陽平と結婚後は、ほとんど帰郷せず、両親が死んでからは生家とも絶縁状態であることがわかった
高崎の裏付け捜査が終わった時、二つの興味ある情報が捜査本部へもたらされた。
一つは、奥多摩山地で発見された女性腐乱死体と、コンタクトレンズ・ケースの件であり、他の一つは、ニューヨークで恭平がとらえられて、小山文枝の轢殺れきさつと死体遺棄を自供したというものである。
郡恭平については、森戸というセールスマンがその父親のやしきに忍び込んで谷井新子に捕まった時、同じ事を訴えていた。もし、情報が真実であれば、森戸の訴えが裏書きされたことになる。
これで、コンタクトレンズ・ケースの所有者が郡恭平と断定されれば、彼の有罪はまぬかれない。
「八杉恭子はショックだろうな」
「とにかく彼女が世に出るきっかけとなった模範息子が極悪交通犯罪の犯人とあってはね」
「八杉もこれでおしまいだろう」
捜査本部では刑事たちがささやき合った。
「八杉もおしまいだなんて、他人事ひとごとみたいに言わないでください。ジョニー・ヘイワードおよび中山種殺害の犯人としての容疑が煮つまっている。おそらく彼女が二人を殺したんでしょう。しかし、今の状態では、彼女を引っくくれない。八杉恭子は是が非でも、おれたちの手で捕まえるんだ。ドラ息子の不始末なんかで彼女を終わらせてたまるか」
とどなったのは、棟居であった。ふだんは無表情の彼が珍しく感情を面に浮かべている。
「私はね、この頃ジョニーがロイヤルホテルのスカイレストランへ胸にナイフを刺し込まれた瀕死ひんしの身で上って行った心根が哀れでたまらなくなったんです」
棟居は語りつづけた。
「もの心のついたかつかないころ、父親と母親に連れられて行った霧積は、ジョニーの記憶に焼き付けられた。おそらく彼の想い出の中で最も貴重で美しいものだったでしょう。
暗くみじめだった短い人生に中の宝石のような母の想い出です。麦わら帽子の詩は、霧積の色紙に刷られてあったのを、母親がやさしく訳してくれたか、いやそのころはジョニーも日本語がわかったのかも知れない。麦わら帽子と霧積は、母の面影のように、面影そのものとしてジョニーの心に刻みつけられていた。会いたい。ただ一目でも会いたい。幼かった自分の手を引いて、緑の燃える霧積の谷あいを下って行った、日本の優しい母に会いたい。その想いは長ずるに及んで抑えがたいまでにふくらんできた。父と共にアメリカへ行ったジョニーのその後の人生がどんなに過酷かこくであったか、想像に難くない。過酷であればあるほど、母への想いは募る。ついにジョニーはその想いに耐えきれなくなって、金を貯めて日本へ来た。不足分は父が命を売って補ってくれた。母親に一目会うために。そして待っていたものは、母親の保身のための無惨な拒絶だった。
実の母によって胸に刺し込まれたナイフ。これがはるばる日本へ母をたずねて来て得たものか。ジョニーはどんなに絶望的な思いでナイフを受けとめたことだろう。彼の薄れていく意識に、ロイヤルホテルのスカイレストランが映った。美しい電飾の麦わら帽子だ。あそこに、自分の本当の母が待っているのかも知れない。かすみかかる意識をかき立てながら、彼は必死に麦わら帽子を追った。彼のまぶたには母への面影が揺れていたことだろう。あの重傷でスカイレストランまで辿たどり着いた事実が、彼の母への想いの深さをよく物語っている。
それを八杉恭子は保身のために虫のように殺してしまったのだ。自分の腹を痛めた子供を殺したんだ。私はあの女が憎い。彼女は人間じゃない、母親の仮面を着た獣なんだ。あの女には、人間の心なんかないんだ」
棟居は沸々ふつふつどとたぎる胸を抑えて自分に語りかけるように語っていた。
2021/11/11
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