~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
人間の証明 (1-03)
棟居の瞼には、いま遠い日の光景がよみがえっていた。米兵たちが父を袋叩ふくろだたきにしてる。なぐる、る、つばをはきかける。父はまったく無抵抗に、彼らの蹂躙じゅうりんにまかせている。まわりを大勢の日本人が取り巻いているが、誰も救けてくれようとしない。
「たすけて! 誰かたすけて」
幼い棟居が必死に救いを求めても、しりごみするばかりであった。そのくせその場に立ちどまったまま、対岸の火事でも見物するように無責任な好奇心を露骨にき出して、事件の推移を見守っている。
自分に危険が及ばなければ、こんな面白い見せ物はない。若い娘を犯そうとしかけた米兵を阻んだために、彼らの怒りが父に向けられた。獣欲を満たす直前に阻止された若い獣たちは、吐け口を失った凶暴なエネルギーを父に叩きつけた。おまそれを救おうとすれば、彼らの怒りをまともにかぶってしまう。
もともと彼らは戦勝国の、日本の天皇よりも上位にある“神の軍隊”であった。手出しは出来なかった。
父が棟居のために勤めの帰途、回り道をして買って来てくれた饅頭が路面にこぼれ散った。それを米兵たちの軍靴が馬糞ばふんでも踏みつけるように、踏みにじった。父の眼鏡が吹っ飛んで、粉々に砕けた。
米兵の暴力の中央に父はぼろのようにうずくまって動かなかった。もう動けなかったのである。
米兵の中にひときわ目立つ、赤鬼のような大男が居た。腕に火傷やけどの引きつれのような傷痕があった。まだ戦場で負傷して間もないのか、裂け目は生々しく赤みがかっていた。その一見、女体の陰部にも似た裂け目から金色の毛が生えていた。
その腕で、ズボンのジッパーを引き下げ米兵は、父に向かって小便をかけはじめた。他の米兵たちが真似をした。米兵たちは盛大な放水を父に集中しながら、げらげらと笑った。取り巻いて見物していた日本人たちも笑った。その時の傷が原因で、父は死んだ。
そのシーンを棟居は、幼い自分の脳裏のうりにしっかりと刻みつけて復讐ふくしゅうを誓ったのである。その場に居合わせたすべての人間だけでなく、父をそのような目に合わせた社会が、人生がかたきであった。
そのあだを討つために、彼は刑事になった。あのときの仇敵きゅうてきが、いま八杉恭子と一体化している。母さえ居れば、父も自分も、あのような屈辱をめずにすんだ。父も死なずにすんだ。母が、父と自分を捨てたからである。
八杉恭子も、保身のためにわが子を捨てた。単に捨てただけではない。はるばる海を越えて訪ねて来たわが子を殺したのだ。母が子に対するこれほど決定的な拒絶があろうか。
棟居には、いま恭子が父と自分を捨てた母のような気がした。そのとき、彼の眠っていた記憶が呼び覚まされた。記憶を抑圧していた薄膜が破れた。マスコミの寵児としての八杉恭子のポピュラーな顔の下から、棟居だけが知っている彼女の顔がよみがえった。
いま棟居は彼女が何者だったか、正確に思い出したのである。
── そうか、あの女だったのか ──
棟居はしばし茫然ぼうぜんとして、ゆくりなくも再会した古い顔を見つめていた。
二十数年前、父がアメリカ兵から身を挺して救ってやった若い女、あの女の顔が、八杉恭子の名士としての美しくポピュラーな顔の下に潜んでいた。成熟して、社会的な位置も定まり、美しい貫禄の備わったいまの八杉恭子に、若いGIに犯されかかったみすぼらしい若い女の面影はない。だが歳月による変貌へんぼうや成熟や、マスコミ名士としての化粧を取り去った後に、まぎれもなく、父をスケープゴートにして逃げ去った若い娘の顔の原形gあった。
それが東京ビズネスマンホテルで初めてすれ違ったとき、棟居の遠い記憶を刺戟したのである。マスコミによってつくり上げられた虚像が、記憶の再生を妨げたとも言える。
たまたま、あの時刻あの場所に通り合わさなければ、父は死なずにすんだ。。恭子のために棟居は父を失ったのである。自分を救ってくれた父を見捨てて、恭子は逃げた。それと同じ様に、彼女はジョニー・ヘイワードを捨てたのか。棟居の胸に煮え立つものがあった。絶対に許せないと思った。
── 彼女には人間の心がないのか? いやどんな下等な動物にもある母親の情はないのか? それを確かめてみたい ──
棟居は目を上げて言った。
「彼女の中に人間の心が残っているかどうかけてみましょうか」
「人間を賭ける?」
那須が目を向けた。
「八杉恭子にもし人間の心が残っていていれば、必ず自供せずにはいられないように追い込んでみるのです」
「どういう風にするつもりだ?」
「麦わら帽子を彼女にぶつけてみたいのです」
「麦わら帽子を?」
「いまもままでは局面を打開出来ません。決め手がどうしてもつかめないのです。彼女の人間の心に訴えて、自供をうながしたいと思います」
「・・・・」
「係長、私にやらせてくれませんか」
棟居は、那須の目を真正面から見つめた。
「成算はあるのかね?」
「わかりません。ですから賭けと言いました」
「捜査を賭けでするわけにはいかんな」
「私も、幼い頃に母親から捨てられたのです。私は、自分を捨てた母が憎い。でもその憎しみの底に、母を信じようとする心があるのです。いや、母を信じたい。八杉恭子の中にも、きっと母親の心があるはずです。私は、自分を捨てた母親と対決するような気持で、八杉恭子と対決してみたいのです」
「・・・・」
「係長! やらせてくれませんか」
「いいだろう」
那須は大きくうなずいた。
「君の思うようにやってみたまえ」
2021/11/11
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