~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
人間の証明 (2-01)
恭平負傷の第一報に動転した八杉恭子が、さらに国際電話を入れて問い合わせたところ、怪我は大したことはなく、病院で手当てを受けて、すぐに帰国の途に就いたことがわかった。
だがその直後に警察から来た連絡は、郡夫婦に激しい衝撃を与えた。奥多摩山中で発見された女性腐乱死体は、恭平が轢殺れきさつした後埋めた疑いがきわめて濃厚であるというものである。
警察では改めて恭平の車を徹底的にしらべることになった。また警察の話しによれば、恭平はニューヨークで犯行をすべて自供したという。恭平本人に直接聞きたくとも、すでに帰国途上にあって、連絡がつかない。
折も折、恭子は麹町こうじまちの捜査本部から任意出頭を求められた。恭子を迎えた警察の態度は紳士的であったが、その底に並々ならぬ決意のほどが窺われた。彼女は、自分が単なる参考人程度で呼ばれたのではないことを悟った。
「本日はお呼びだていたしまして」
先日テレビ局に訪ねて来た棟居という精悍せいかんな表情の刑事が、彼女とむかい合った。壁に面してもう一つ小机があって、そこに棟居よりやや年輩の意地の悪そうな目つきの刑事が居た。見る角度によって猿に似ている。彼も先日一緒に来た刑事だった。
「恭平は、間もなく帰国してまいります。私はなにも知らないのです。きっと何かの間違いだと思いますわ。恭平にかぎってあんな・・・」
「奥さん、今日お越しいただいたのは、その件ではないのです。ご子息の件は、我々の担当ではありません」
たしか先日来た時は、恭平のことについて聞きたいことがあると言っていたはずであった。
「すると、いったい何の件で?」
棟居は知らないはずはないと無言の凝視にこめて恭子の表情をうかがう。ここへ来た時に捜査本部の大看板を見ているはずなのである。
「九月十七日ロイヤルホテルでアメリカ国籍の黒人が刺殺された事件です。正確には清水谷公園で刺された後、ホテルのスカイレストランまでい上がって来て、息絶えたものです」
「その事件が私に何か?」
恭子の表情には、不審の色しかない。
「奥さんはこの事件について何か心当たりはありませんか?」
「そんな心当たりが、私にあるはずはないでしょう」
「我々は、奥さんに必ず心当たりがあると信じているのです」
「まあ、警察って、ずいぶんでたらめな言いがかりをつける所なんですね」
恭子の頬にうすく血の色がのぼった。
「はっきり申し上げましょう。我々は殺された黒人が、奥さんの子供だと考えています」
「まあ!」
八杉恭子は、一瞬息をのんだ。
「奥さんは、終戦後三、四年ほどウィルシャー・ヘイワードというアメリカの黒人兵と夫婦、あるいはそtれに準ずる関係にありませんでしたか?」
棟居はたたみかけた。恭子は急に身体を折り曲げた。口辺から抑えた声がククッと漏れた。棟居の繰り出した第一撃に早くも打ちのめされて、感情のバランスを失ったのかと思いかけた時、恭子は面を上げた。彼女は笑いを抑えていたのである。体をよじってその笑いを耐えていたのだ。
「警察って・・・どうしてまたそんな途方もない想像をするのですか。私が黒人と結婚して、黒人の子を産んだことがないかなどと、まあ、あきれた! いったいどうしてそんな想像が出来るんでしょう。これを聞いたら、きっと誰でもお腹をかかえて笑うでしょうね、あはは、ああ、おかしい」
恭子は言葉通り、腹を抱えて笑っていた。笑いすぎて、目尻めじりに涙をためている。
2021/11/12
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