~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
人間の証明 (2-02)
しきりに笑った後、彼女はきっと表情を改めて、
「私、帰らせていただきますわ。そんな馬鹿々々しいお話し相手をつとめるほど、ひまではありません」
と言い放った。
「昭和二十四年七月、ウィルシャー・ヘイワードとジョニーの三人で霧積へ行ったでしょう」
「そのことはこの間、はっきり、知らないとお答しているでしょう。私、いま大笑いしましたけど、本当は怒っているんですよ。黒人と夫婦だったとか、その人との間に子供をもうけたとか、ひどい侮辱ぶじょくですわ。私には夫も子供もいます。夫も私も一応の社会的な地位があります。いった何の証拠があってそんなひどい言いがかりをつけるのです?」
「霧積の旅館に当時親居た中山種という人を知っているでよう」
「知っているわけないでしょう。霧積なんて行ったことはないんですから」
「知っているはずです。山中種さんはあなたと同郷の、八尾出身なのです」
「八尾から出た人は、いくらでも居ますわ」
「種さんが、あなたの遠縁に当たる大室よしのさんの手紙を送って来たのです」
棟居は、二枚目のカードを出した。さして威力のあるカードではないが、相手の受け取り方によっては、致命的な効果を発揮するかも知れない。
「その手紙に私のことが書いてあったというのですか?」
恭子の顔が少し改まった。
「我々はあなたのことだと思っています」
「それはどういうことなのでしょう? 私にはずいぶん曖昧あいまいに聞こえますが」
「つまりあなたがウィルシャーとジョニーと遺書に霧積へ来たということです」
「その手紙、見せて下さい」
それを当然要求されると予想していたので、思いきったはったりをかませられなかったのである。
見せればこちらの薄弱な手の内を見すかされる。
「それは今ここにありません」
棟居は苦しい言い訳をした。
「どうしてですの? そんな大切な証拠を 手許てもとにおいてないなんておかしいじゃありませんか」
「・・・・」
「そんな手紙、初めからなかったんでしょう。それとも、手紙には私のことなんか書いてないでしょう」
言葉に詰まった棟居に、恭子は勝ち誇ったように押しかぶせた。彼女は、棟居の撞き出したカードを手もなく躱すとともに、警察側の手持ち資料の 脆弱ぜいじゃくなのを見抜いたらしい。
警察って、ずいぶんひどい言いがかりをつける所なんですね。そんなありもしないでっちあげで人の名誉を傷つけておいて、そのままですむと思っているのですか。いずれこのことは主人と相談して、私どもの態度を決めますわ。失礼します」
恭子は、すっと立ち上がった。
「奥さん、お待ちください」
棟居の声の調子が改まった。恭子は未だこの上に言うことがあるのかというような顔を向けた。
「奥さん麦わら帽子の詩をご存知ですね?」
「麦わら帽子? この間もたしかそんなことをおっしゃってましたわね。私、そんな詩なんか知りません。詩は嫌いじゃありませんけれど、警察から押しつけられたくありませんわ」
「奥さんは、必ずその詩を知っておられるはずです」
「あなた、どうかしているんじゃないの? 私は知らないと言ってるのよ」
「幼い頃の夏の日、子は母に連れられて、霧積へ行った。母に手を引かれて渓に沿った道を歩いていると、いきなり吹いて来た強い風にさらわれて、幼児のかぶっていた麦わら帽子が渓の底へ落ちてしまったのです。子はそんp麦わら帽子に託して、母親に向ける切々たる思慕の情を詩った。その詩が、霧積へ行った三人の親子連れの目にとまった。
おそらく生涯に一度だけの親子いっしょの旅行だったのでしょう。渓谷は緑に燃え、母は若く美しく、優しかった。子の胸にその時の想い出が焼き付いてしまった。その子のその後の過酷な人生の中で、たった一つの宝石のような想い出だった。父親も、その旅行で一緒だった。家族は旅行の後に離散した。もしかすると、その旅行は、一家が離散する前の最後の想い出のための旅行だったかも知れない」
2021/11/12
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