~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
人間の証明 (2-03)
「やめてください。そんなお話、私には関係ありません」
恭子は言ったが、立ち去ろうとはしなかった。なにものかが意志に反してその場に彼女を縛りつけているようであった。
「一家は、その旅行の後で別れた。子は父に連れられて、父の本国のアメリカへ、母は日本に残った。そこにどんな事情があったのか、私は知りません。だが、子には霧積の想い出が、母の想い出として深く刻まれた。霧積の想い出をうたった西条八十の麦わら帽子の詩が、自分のことのように印象されてしまった。たぶん、その詩は、そのとき母が子に話して聞かせたものでしょう。
父に連れられてアメリカへ帰った子は、母への想いに耐えきれなくなって、日本へやって来た。父はその子のために生い先短い身体を自ら車に当てて、その補償で旅費をつくってやった。父の死が母への想いのせきを切ったのかも知れない。父も子に託して、かつての『日本の妻』に会いたかったのでしょう。緑の霧積を背景にした母の面影が、子のまぶたに揺れている。底辺の差別の生活の中で、母だけが子の救いだった。辛い時、悲しい時、母の面影が、いつも子を柔らかく救ってくれた」
八杉恭子は黙ってしまった。面は無表情でよろっているが、肩先が少し震えている。
「子は一目でいいから母に会いたいと思った。自分のたった一つの宝石である霧積の想い出をみしめたかった。母が新たな結婚をして、べつの家庭を営んでいることは知っていたかも知れない。母の生活を乱すつもりはなかった。ただ一目でいいから会いたい。親子の情とはそんなものではないでしょうか。その点において血を分けた仲というものは、性的な男女関係とは本質的に違う。
だがその子を母は決定的に拒んだ。母は成功し、社会的な地位もあり、名声もあった。
安定した家庭と子供があった。それらのすべてを、そでにその存在すら忘れていた黒い隠し子が突然現れて、根本から破壊しようとしている。母は、自衛のために子の一人を犠牲にしようとしたのだ。しかし、はるばる日本へ父の命であがなった旅費によって、面影の母を訪ねて来た子は、母の文字通りの致命的な拒絶にあってどんな想いだったろうか。たった一つの宝石は微塵に砕かれてしまった。絶望のひとみに、麦わら帽子がうつった。花やかなイルミネーションに縁取られた夜空に浮かぶ麦わら帽子だった。
ロイヤルホテルのスカイレストランは、夜眺めると麦わら帽子の形に見えることをご存知ですか。そこへジョニー。ヘイワードは最後の気力を振り絞ってい上がって行ったのです。
彼は母の致命的な拒絶にあいながらも、なお、母を信じ続けていたのです。あそこに母が居る。自分を優しく迎えてくれる母親が居るに違いないと。一歩一歩よろめき歩いて行った後ろには血のあとがしたたっていた。それは母にえぐられた傷口からしたたり落ちる血の痕です。奥さん、この帽子を覚えていますか」
棟居はこの時のために用意しておいた麦わら帽子を恭子の前に差し出した。材質も不明なほどに古びて、さわればぼろぼろに崩れてしまいそうである。清水谷公園で発見されたあの麦わら帽子であった。
2021/11/13
Next