~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
人間の証明 (2-04)
恭子がはっと息をのむ気配がした。
「この帽子はジョニーが幼い頃、母親に買ってもらったものです。霧積のみやげに、帰途どこかで買ってもらったものでしょう。彼はこの帽子を日本の母の形見として二十数年間大切にとっておいた。この古さかげんを見て下さい。この古さは、ショニーの母に寄せる思慕の強さを語るものです。触ってごらんなさい。触れば灰のように崩れてしまいそうなこの古い麦わら帽子、これがジョニーのなにものにも替え難い宝物だったのですよ」
棟居が、帽子を差し出すと、恭子は、避けるように身体を退いた。
「もしあなたに一片の人間の心が、いやどんな動物にもある母親の情が残っているなら、この麦わら帽子の詩を、なんの感慨もなく聞けないはずです」
棟居は帽子を手にささげ持つようにして相手の面をみつめた。恭子の唇が震えた。面がいっそう青白くなっている。
「母さん、僕のあの帽子、
どうしたでせうね?」
棟居は、すでにそらんじていた詩をとなえはじめた。
「やめて」恭子はかすかにつぶやいた。その体ががくりと揺れたように見えた。棟居はさらにつづけた。
「ええ、夏碓うすひ氷から霧積きりづみへ行くみちで、
渓谷へ落とした
あの麦藁むぎわら帽子ですよ」
「おねがい、やめて」
八杉恭子は、椅子の上に崩れ落ちて、面を被った。棟居はとどめを加えるようなサディスティック気持で『西条八十指数詩集』を取り出した。
「八杉さん、この詩集を覚えていますか。これはジョニーが、この麦わら帽子と一緒に日本へ持って来たものですよ。言わば彼の遺品です。あなたが買ってやったものでしょう。詩の続きをあなた自身で読んでごらんなさい。いい詩じゃないですか。体に血の流れている人間なら、子を持つ親、親のある子なら誰にでもじーんとくるような詩だ。読めませんか。読めないのなら、私が読んであげましょう」
棟居は八杉恭子の前で、詩集のその個所を開いた。
「母さん、あれが好きな帽子でしたよ。
ぼくはあのとき、ずいぶんくやしかった、
だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。
母さん、あのとき向ふうから若い薬売りがきましたつけね。
紺の脚絆きゃはん手甲てっこうをした。
そして拾はうとしてずいぶん骨折ってくれましたつけね」
八杉恭子の肩が激しく震えた。棟居は詩を読み続けた。
「── だけどたうたうだめだった。
なにしろ深い谿たにで。それに草が背丈ぐらゐ伸びていたんですもの。
── 母さん、ほんとにあの帽子どうなったでせう?
そのときそばで咲いていた車百合くるまゆりの花は、
もうとうに枯れちゃったでせうね、
そして、秋には、灰色の霧があの丘をこめ、あの帽子の下で毎晩きりぎりすがいたかも知れませんよ。
── 母さん、そしてきつと今頃は ──
今夜あたりは、あの谿間に、静かに雪が降りつもってゐるでせう。
昔、つやつや光った、あの伊太利イタリー麦の帽子と、その裏に僕が書いたY・Sといふ頭文字を埋めるやうに、静かに、寂しく ──」
読み終わると、一瞬静寂が落ちた。都心にある捜査本部の一室が、海の底のような静けさに包まれた。街の遠いざわめきが、べつの世界の気配のように漂って来た。
「ううっ」と八杉恭子の口から嗚咽おえつが漏れた。
「ジョニー・ヘイワードはあなたの息子だったのですね」
棟居が束の間の静寂を破って確かめた。
「私、わたし、あの子のことを片時も忘れたことはありません」
八杉恭子はデスクに打ち伏して、はげしくしゃくり上げた。
「あなたが殺したのですね」
棟居は追撃の手を緩めなかった。恭子はしゃくり上げながらうなずいた。
「中山種さんを殺したのも、あなたですね」
「しかたがなかったんです」
後の声は言葉にならなかった。恭子はついに落ちた。決め手のつかめないまま、容疑者の人間の心にかけた捜査本部は、その賭けに勝ったのである。
2021/11/13
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