~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
人間の証明 (3-01)
ニューヨークから郡恭平と朝枝路子を連れ戻して来た新見は、彼らの身柄を警察に引き渡した後、小山田に会った。すでに文枝の死体が奥多摩山中で発見され、確認されていた。
「やっぱり死んでいましたよ」
新見を迎えた小山田は力なく言った。絶望への大きな傾斜の中で、残していた一縷いちるの望も、これで完全に絶たれたわけであった。
「残念です」
新見も、生まれて初めて真剣な恋愛が完全に終わったのを悟った。もうこれから文枝を愛したように、女を愛することは二度とないだろう。これは他人のためにセットされたような自分の人生の中で、ただ一度だけ自分に忠実に生きるための反乱であった。
反乱は終わった。これからふたたび打算と功利の生活が始まる。それはそれでよい。それも自分が選び取った人生である。
「新見さんには、本当にお世話になりました」
小山田は心から感謝していた。盗まれた妻も、死んだことを確認してみれば、盗んだ相手に対する怒りも消えてしまったようである。新見は十分、男のつぐないをした。もっとも新見にしてみれば、償いではなく、自分のためにしたことである。
「小山田さん、これからどうなさるいつもろですか?」
「いまは、何をする気にもなれませんが、そのうちに何か仕事を見つけるつもりです」
妻の収入がなくなったので、生活が窮迫していた。もうすぐにも働かなければならないほどに切羽詰まっていたのである。
「もしよろしければ、私が適当な仕事を紹介いたしましょう」
新見はひかえめに申し出た。
「ご好意だけいただだいておきます。そこまでお世話になりたくありませんので」
小山田はきっぱりと言った。妻が居なくなれば、もう新見との間になんのつながりもない。新見のその後の贖罪しょくざい的行為があったとしても彼が妻を盗んだ事実に変わりはない。妻を盗んだ男に、今後の生活の方途を託すわけにはいかなかった。
「これは、つい余計なことを言いまして」
新見も自分の差出口を悟った。
「それではこれでお別れいたします」
「お元気で、ご機嫌よう」
二人の男は別れた。それぞれに二度と会うことはあるまいと思っていた。一人の女を共有した二人の男は、その女の死と共に、かけがえのない宝物を失った。
── もう二度とあれほどの女に逢うことはあるまい・・・・という失意が、彼らの共通項に終止符を打ったのである。
2021/11/13
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