~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅳ』 ~ ~

 
== 『 人 間 の 証 明 』 ==
著 者:森村 誠一
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
人間の証明 (4-02)
私はジョニーを殺す決意をして、九月十七日の夜八時ごろ清水谷公園で待つように言いました。あの公園が夜になると人通りが絶えて、逃げるにも足場がいいと前から知っていたからです。
でもジョニーに会うと、何度も固めたはずの決心が鈍りました。それが鈍ったまま、自分と家庭を守るためにナイフを突き出したために、ナイフは先端がジョニーの体にほんの少ししか刺さりませんでした。その時ジョニーはすべてを悟ったようです。ママは僕が邪魔になったんだねとジョニーは言いました。・・・その時のジョニーのたとえようもない悲し気な目つきを私は忘れることが出来ません。・・・私は・・・、私は、・・・わが子をこの手で刺してしまったのです。すべてを悟ったジョニーは、私が中途半端に手を離してしまったナイフの柄に自らの手を当ててそのままグッと深く突き立てたのです。
そして私に早く逃げろと言いました。ママが安全圏に逃げきるまで、僕は絶対に死なないから早く逃げろと、自分を殺しかけた母の身を瀕死ひんしの体でかばってくれたのです。私はあれ以来一分一秒として安らかな時間はありませんでした。でもせっかく一人の子供を犠牲にして守った地位と家庭なので、最後まで大切にしようと思ったのです」
── 中山種さんは、なぜそしてどのようにして殺害したのか?──
「種さんを殺すつもりはまったくありませんでした。新聞を読んで、警察がいずれ霧積に目をつけるだろうことを予測して、種さんがどの程度私たちのことを覚えているかそれとなく探りに行ったのです。それが刑事さんが霧積へ行った日と同じだったのは、偶然の一致です」
── それならば、なぜ、高崎では自分を隠そうとしたのか? ──
「種さんに会いに行くことは、極力隠したかったからです。主人にも今回は妻として私的に従ついて行きたいおら応援演説のようなことは一切しないと言って了解してもらいました。十月二十一日、主人の講演会と地元有志との懇談会が終わった後、近くに住んでいる大学時代の同窓を訪ねると主人を欺いて、人目につかぬように湯の沢の種さんの家を夜遅く訪れたのです。でも種さんは私を『黒人の家族連れ』としてよく覚えていました。その時私は、種さんを殺さなければばらないと思いました。その夜はそこに泊めてもらって隙を狙ったのですが、なかなかチャンスがありません。そのときふと種さんがこの村も間もなくダムの底になると洩らしました。私は、それなら今のうちによく見納めておいた方がいいだろうと言いますと、足腰の立つうちによく見ておこうと言い出しまして、私の肩にすがってダムの上へ出かけたのです。早朝のことで、他には人影はありませんでした。お種さんは霧積で働いている孫が今日は帰って来るとかで、とても上機嫌でした。きっと自分の元気なところを孫に見せるための訓練のつもりがあったのでしょう。私を全然疑っていませんでした。無防備なお種さんをダムから突き落とすのは、あっけないくらいにたやすいことでした。お種さんは、まるで紙のようにぎらひらと落ちていきました。あまりあっけないので、しばらくは人間を突き落としたという感じがしませんでした」
恭子の自供後、新見に伴われて帰国した郡恭平と朝枝路子も犯行を自供した。恭平の車体からもかすかな人体の組織片が採集され、小山田文枝のものと認定された。恭平はコンタクトレンズのケースと、熊の縫いぐるみも自分のものと認めた。ケースだけ何気なくポケットに入れっぱなしにしておいたのが、小山田文枝の死体を埋めるはずみに地上に落ちて、決め手にされてしまったのでsる。
同じころ、新宿署では、あるアパートの一室で「アンパン遊び」と不良学生の間で呼ばれる、睡眠薬にラリって乱交するパーティに 加わっていた男女高校生十数名を補導した。その中に郡・八杉夫妻の娘である陽子が加わっていた。八杉恭子は、一人の子を犠牲にして守ろうとした二人の子をも同時に失ってしまったのである。もちろん、彼女の社会的名声も終わりであった。
だが彼女の失ったものは、それだけではなかった。郡陽平が離婚を申し立てたのである。それを知っていれば結婚しなかったであろう重大な事実を隠していたというのが理由であった。
恭子は争わずに、その申し出をれた。夫が自分の地位を護るために、離婚を申し立てて来たことがわかっていたからである。このに彼女は一切のものをうしなった。それは徹底的な喪失であった。
だが、彼女がすべてを喪った後にも、ただ一つ残しているものがあったことを知っている捜査員がいた。
八杉恭子は、自分の中に人間の心が残っていることを証明するために、すべてを喪ったのである。棟居は恭子が自供自した後、棟居自身の心の矛盾を知って、愕然がくぜんとなった。
彼は人間を信じていなかった。そのように思い込んでいた。だが決め手を掴めないまま恭子に対決した時、彼は彼は彼女の人間の心にけたのである。心の片隅で、やはり人間を信じていたのだ。
捜査本部に悪人を捕えた勝利感はなかった。
年の瀬が迫っていた。
2021/11/14
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