~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第一章 他の者を救おうとすれば自からその中に飛び込め
第一章 (1-01)
激しい演習だった・・・臭かった。寒かった。胸から下がずぶ濡れだった。それでなくてさえ重い装具をつけているにに、ドブ川の臭い水と泥がべっとりと附着したものだから、身体はまるで倍の重さになり、駈けると軍靴から汚水がほとばしり出た。
ちょうど巷は、夕方の混雑時だった。道往く人々は、この異様な駈ける一ト塊りに、けげんな眼差しを送った。
── 一体、どこのドブ川にはまり込んだんだろう?
だが生徒たちは、そんな視線に気を使ってはいられなかった。恥ずかしいも、寒い裾も、臭いもなかった。こしらえた兵隊のように、銃の台尻をもった右手の肘をしっかりと腋下に押しつけて、銃をおッ立て、左手で帯剣をおさえ、眼は宙にすえたまま、ザ、ザ、ザ、ザ、ザ、ザ、ザ、・・・小きざみに、一定の速度で駈ける、その短調な肉体の苦しみに耐えるのが、精一杯の努力であった。
だが、苦しみに耐える・・・ああそれは何と気持のよいことだろう! それこそが軍人精神を涵養する基本的なものである。悪臭を撒き散らしながら駈ける生徒たちの胸に中には、自分らは選ばれた生徒だという自負があった。選ばれた生徒として、この苦しみに耐え、やがて将校となって国家有事のお役に立つのだという誇りと自負が、心に中にしっかりと根を張っている。
ザ、ザ、ザ、ザ、ザ、ザ、ザ、ザ、・・・生徒たちはその自負と誇りに貫かれて、歯をくいしばり、その速度の一つ一つを乱すまいと気を張って駈けていた。それに臭い一塊の先頭には、生徒たちの尊敬してやまない中隊長の辻正信大尉が、生徒と同じ泥んこ姿で、指揮刀を握って駈けていたのだった。──
辻大尉は、士官学校の生徒の間では、もはや信仰的な存在である。陸軍大学校をトップで出たいわゆる軍刀組であり、さきごろの上海事変には第七師団から若い中隊長として初陣し、その戦場の駆け引き、実戦に臨んでの勇猛果敢な振舞は、先輩将校たちの舌を巻かせたということだ。
士官学校の中隊長はそれまでは大学出ではないいわゆる無天組の大尉によって占められ、陸大出の蚕食を許さなかった。その慣例をやぶって辻大尉を迎え入れたのは ── もちろん辻自身もつよくそれを希望したのだが ── 当時士官学校の幹事(副校長)をしていた東条英機少将だという。東条幹事は、陸大出の優秀な中隊長を入れることによって、沈滞している士官学校教育の刷新を図ろうとしたのである。それだけに辻大尉は、無天組の中隊長や教官たちから、ずいぶん白眼視された。
「天保銭のトップが何だ。あんな若僧に何が出来るか、とくとお手並み拝見しよう!」
だが生一本な辻大尉は、校内のそんな空気には頓着なく、むしろはねッ返すようにう鋭意職責のの遂行に邁進した。
生徒たちも年取った中隊長よりも、溌剌たる青年将校、しかも実戦の経験があり、体内にはまだ中国製の弾丸の破片を幾つか持っている辻中隊長の方に魅力が集まる。魅力はやがて信頼となり、信仰にまで高まった。それに何よりも辻中隊長が生徒たちの信頼をかち得ているゆえんは、その実戦の経験から割り出した率先躬行であった。辻は、他の中隊長のように口先だけで、教えたり、批評したりはしない。言うことは、必ず行うし、他人に強いる時は、自らもその中に入る、率先躬行・・・これこそが教官であり、中隊長たるものの在り方ではないか!
あの日の演習もそうだった。・・・・山ヶ原から演習を始めて、夕方になった。最後の突撃に移り、着剣した銃を擬して突進して行くと、思いがけなくドブ川に突き当たったのだ。幅五米ほどの川で、覗くと薄黒く淀んだ水に、初冬の曇った空が白く映っていた。跳躍しても越せそうもなかった。近くに橋も見当たらないし、深さもわからない。どしたものか、と惑っているうちに、動かない生徒の塊が出来てしまった。
「先頭は、何をしとるかッ!」
後ろから中隊長の怒声が、迫って来た。そして中隊長もまたドブ川に突き当たったのである。
だが状況を一瞥した中隊長には、少しの躊躇もなかった。状況を判断して、決定を下した・・・というような痕跡さえも見受けられなかった。いきなり生徒の動かない塊に割って入ると、
「中隊長につづけ!」
ザンブリとドブ川に飛び込んだ。それを見て、生徒たちも無我夢中で飛び込んだ。
水深はいくらもなかった。が、腰のあたりまで水に浸かってしまった。歩行は困難だった。が、生徒たちは、中隊長の先導で一思いに飛び込んだ余勢をかって、元気で対岸へ這い上がった。
だが、それにしても腰から下はドブの泥がべっとりと附いて悪臭を放ち、軍靴には汚水がたまって水槽みたいに重くなった。誰も彼も見られたざまじゃなかった。寒さは濡れた軍服を透して、遠慮会釈もなしに、攻めさいなんでくる。
中隊長は、しかしそんなことはお構いなしに、すぐ「集まれ」の号令をかけた。
鼻をつく悪臭を撒き散らしながら集合すると、中隊長は、指揮刀を脾腹からまっすぐ立てて、歯切れのいい口調で、
「他の者を救おうとすれば、自らその中に飛び込め。岸に立って、自分は濡れずに助けられるものではない。渦中に入って助けられなければ、自分も共に死ね!」
と訓示し、
「本日の演習終り。学校まで駈足!」
そう命じて、みずから先頭に立って駆け出したのである。臭いの寒いのと言っている暇がなかった。市ヶ谷台の学校に帰着すると、泥水と発刊とで上も下もグッショリになってしまった。
2021/11/15
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