~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第一章 他の者を救おうとすれば自からその中に飛び込め
第一章 (1-02)
あんなひどい演習は、初めてであった。だが、時が経つにつれ、臭い演習の思い出は、微笑ましく、むしろ気持がよいものとして回想された。すべてが具体的であり、実際的であったからである。
── それにあの時の訓示も好かった!
士官候補生の佐藤勝郎は銃器の手入れをしながら、あの時の演習の一つ一つを心の中で 反芻 はんすう してみるのである。
「── 他の者を救おうとすれば、自らその中に飛び込め。岸に立って、自分は濡れずに助けようとしても、助けられるものではない!」
まったくその通りだ、と佐藤は思う。
── すると、あの事は・・・・あれは自分として、どう処置すべきだろう?
隣りの中隊の武藤候補生らが、上級生の佐々木、次木、荒川ら候補生と直接行動の秘密グループを作っているという。武藤らは予科時代からしきりに国家改造熱をあげ、教官の片岡中尉を中心にグループを作っていたが、最近は日曜外出ごとに陸大の中村幸次大尉や砲一の磯部浅一主計らの青年将校を自宅に訪ね、国家改造理論の洗礼を受けている。いや、すでに洗礼の域を通り越して、理論を実行に移そうとしている様子だった。
それを佐藤に知らせたのは、同期生の村山であった。── 村山はこんな風に話した。
「オレは仲間に入れと勧誘されたが、断った。理由は五・一五事件の際、海軍側から 蹶起 けっき 慫慂 しょうもう されたのに対して、陸軍側の青年将校は自分らは引込んでいて、士官候補生だけを飛び出させた。青年将校は口ほどにもない卑怯者だ・・・アテにならん! だから、オレは断ったが、しかし武藤らが青年将校にだまされるのを知って、放っておくわけにもいかない。止めたいが、止めるには、どうしたらいいだろう?」
困ったことに、同期生は武藤一人で、あとの三人は上級生である。階級観念の絶対的な軍隊では、一期違えば、大人と子供ほどの差異がある。上級生には、まともに物も言えないのである・・・それをどうするか?
佐藤は、武藤らが先輩の青年将校の影響を受けて国家改造理論に傾倒し、そのバイブルともいうべき北一輝の「日本改造法案」をひそかに手に入れ、熟読していることを知っていた。そして彼らは、口を開けば「昭和維新」の実現をいう。だが、実際問題として、彼らが口にするほどたやすく昭和維新が成功するかどうか、甚だ疑わしいと思う。近くは五・一五事件の例もある。あの時、士官学校からは十八名の士官候補生が海軍側の青年将校に呼応して立ち、あの大事件を引き起こしたのだ。だが、結果はウヤムヤに終わった。殺人 ── しかも一国の首相を殺害しながら、陸軍側は一様に禁錮四年という軽い刑罰ですんだが、刑罰が軽かったのは何やら頭を撫でられたような工合である。彼らが企図した非常事態に対する戒厳令も布かれず、まして国家改造も行われず、陸軍そのものも旧態依然たる有様なのが、何よりもその証拠だ。
「いや、今度は違うんだ」と、武藤らは自信ありげに言う。「五・一五の時は、陸軍側の青年将校がついて来なかったから失敗したんだが、今度は青年将校とガッチリ結んで、軍隊を動かして議会を襲撃するんだ。邪魔な者は片っ端っからやっつけてしまう。そうすれば非常事態だから、戒厳令が布かれる。そこで我々は現陸相の林大将を首班に、真崎、荒木両大将を両翼とする軍政府を要請して、 一気呵成 いっきかせい に国家改造へ持って行く・・・どうやら村中さんや磯部さんなどの構想もそうらしいんだ。ただ決行の時期と方法の問題が、まだ未定なんだがね・・・貴公も村中さんや磯部さんに直接会って、話しを聞いたらどうか。西田税も訪ねて行けば、いつでも快く会ってくれるよ」
西田税は青年将校の思想的指導者である。士官学校の先輩だが、今は退役して北一輝の番頭格である。そしてもっぱら北と青年将校団との橋渡しをしている様子だった。
「いん、行こう よこ─」
佐藤は深くも考えずに約束してしまった。
だが、もともと佐藤は、革新理論には賛成ではなかった。というよりは、いつか辻中隊長の言った言葉、
「士官候補生は、国家改造運動などに入ってはいけない。候補生は将校ではなく、次時代に将校として立つべき未完成の者である!」
それが鵜呑みに頭の中にある。
── そうだ、俺たちは未完成なのだ。まだ国家改造熱などにうかされちゃ、いけないんだ!
佐藤は、中隊長の言葉をもう一度噛みしめるように反芻して、瞳を輝かした。
だが、その瞳はすぐ暗くかげった。
── 国家改造熱に浮かされちゃいけない未完成者だとしたら、武藤らは、その熱にうかされている病人だろうか。病人だとしたら、助けてやらなけれなならないが・・・助けるには、どうしたものだろう?
佐藤の悩みは、主客ところを変えた。彼の若い思考はすぐ飛躍した。
── そうだ、いつか中隊長殿の言われた通りだ・・・他を救おうとすれば自らその中へ入れ、岸に立って、自分は濡れずに助けようとしても助けられるものではない!
佐藤の瞳は怪しくキラキラとかがやいた。
2021/11/16
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