~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第一章 他の者を救おうとすれば自からその中に飛び込め
第一章 (2-01)
東京へ帰って、さっそく事件発覚の真相を聞くと、辻の信頼した桜会の中心メンバーは赤坂の待合で流連し、謀議を重ねたために発覚したとも言い、大川周明が宮内省方面に売り込んだとも言い、いや西田税が売ったのだとも言い、その識別は不明瞭であるが、いずれにしても宮内省方面から陸軍首脳部に通報されて検挙になったことは事実であった。
計画が発覚した晩、クーデター決行後の軍政内閣首班に擬せられていた荒木大将が、ひそかに築地の待合に隠れていた事件の主謀者の一人である 長勇 ちょういさむ 少佐をたずね、そこへ橋本中佐を呼んで、説得して、計画を放棄させたと言われている。二人の主謀者は待合から憲兵隊に「自首」の形で赴いたが、東京憲兵隊長は「遅くなって腹が減ったろうから、まず一杯 ──」と、二の膳つきで、下へも置かぬ歓待ぶりをした、という。翌日、一味の者は各地に分散されて窮命を仰付けられたが、憲兵に護送されて東京近郊の指定地へ行くと、芸者付で朝から酒が出て、それぞれ豪遊をきわめた。そして結局、主謀者の橋本中佐と長少佐は重謹慎一ヶ月の行政処分を受け、その他はそれぞれ差違はあったが、十二月の移動で、中央を遂われて、事件は落着したのだった。
当時の陸軍首脳部がこの事件に対して、いかなる考慮と態度をもってのぞんだかは、辻のような低い階級の者には窺い知るべくもなかったが、少なくとも橋本少佐らの計画は、軍隊を動かしての叛乱予備罪である。計画には、参加兵力として「将校は加盟せる者在京者にみにて約百二十名、兵は近衛各歩兵連隊より歩兵十個中隊。機関銃中隊は第一師団の歩一、歩三より約一個中隊、但し夜間決行の場合は近歩三連帯は殆ど全員」とし、外部よりの参加者として「横須賀より海軍将校の抜刀隊約十名、霞ケ浦の海軍爆撃機十三機。下志津より飛行機三、四機」。そして攻撃目標は「首相官邸の閣議の席を急襲し首相以下斬撃」、「警視庁の急襲占拠」、「陸軍省、参謀本部の包囲」となっていたのである。明らかに天皇の軍隊を使用しての叛乱予備である。この計画に参加しようとした青年将校たちは、事が成ったら、天皇の軍隊を使用した罪を侘びて「二重橋前で切腹するつもりであった。だが、主謀者たちは待合に流連して、計画が発覚しても「切腹」せず、「窮命」と称して芸者をあてがわれて豪遊三昧をし、そのうえ行政処分で重謹慎一ヶ月・・・しかも主謀者たちはクーデターの後に、内務大臣や大蔵大臣、警視総監等の椅子に就く予定であったとは?。
国家改造計画などというものは、多くの場合こんなものである。青年将校は生命を捨て、妻子を捨てて、ただ国のために死のうと悲壮な覚悟を持っていたのに、これを指導した首謀者の中堅将校らは「死ぬ」気がないのみならず、青年将校らの犠牲を踏み台にして自己の栄達と権力の獲得を夢見ていたのである。バカバカしい限りである。
辻は、それ以来国家改造運動から離れてしまった。与えられた職責を一意遂行することで、軍人としての自己を生かそうと決心したのである。もっとも彼は、国家改造への情熱を全然棄てきってしまったのではなく、いくらかは、生一本な気持の中に温存していて、その後も革新的な青年将校らとちょいちょい接触があった。そんな時には、彼は、不用意に、
「君らがやる時は、すぐに知らせてくれ。その時は決してヒケを取らないぞ!」などと放言したいする矛盾をあえて犯しはしたが・・・。
十月事件の失敗後、純真な青年将校の気持は、すっかり佐官級の幕僚たちから離れてしまった。待合で酒を呑んで大言壮語する国士風のやり方を、不純なものとして排斥し、自分たち尉官級の純粋な青年将校だけで国家改造運動をつづけようとする傾向が一段と強まったのだ。それに国家機構をくつがえすような大事件を企図して、よし失敗したとしても、十月事件の後始末に徴しても大した罪にはならない、ばかりか救国の志士として遇せられる ── という観念を一般に植え付け、それがその後の類似事件を頻発させる要因にもなったのである。
2021/11/117
Next