~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅴ』 ~ ~

 
== 『 叛 乱 』 (上) ==
著 者:立野 信之
発 行 所:㈱ぺりかん社
 
第一章 他の者を救おうとすれば自からその中に飛び込め
第一章 (4-03)
── それにしても中隊長は、どうして自分が日曜日に家へ立ち寄らないことを知っているのだろう?
佐藤はまじろぎもせず、中隊長をみつめつづけた。
「実はな・・・」辻は、ちょっと視線を泳がせてから言った。「中隊長は、お前にこんどのようなことをさせようとは、夢にも思わなかったのだ。今度の事柄に関しては、中隊長は十分責任を負うし、オレ自身の気持も割り切っているが、ただ佐藤にそういうことをさせるということが、何か心苦しい、どうにも割り切れないものがあるんだ・・・」
辻の顔には、苦悶くもんの色が現れた。
それを見て、佐藤は身をふるわせ、
「中隊長殿」と叫ぶように言った。「それは、佐藤が・・・自分から・・・自分で希望して・・・」
「いた、待て」辻はさえ切った。「お前がそれを希望したにしても、それに承諾を与えたのは、中隊長だ。責任は中隊長にある・・・といっても、これは妙なことなんだ。やるのは、お前がやってる・・・そこで、中隊長は悩んだ。こんなことをお前にやらせていいかどうか・・・少なくとも自分の生徒に、やらせていいかどうか・・・そこに、中隊長としてのオレの煩悶があった・・・」
「中隊長殿・・・」
佐藤は、また何やら言おうとして、叫びかけた。
「いや、待て」辻は制した。「そこでだな、中隊長は、お前に対して出過ぎたことをしたかも知れんが、実は、今朝、区隊長に事情を話して、お前の実家に行ってもらった。ともあれ、事情を打ち明けて、お母さんや姉さんのご了解を願おうと思ったのだ・・・」
佐藤の眼は見開いたままだった。見開いたままキラキラ光っていた。
「しかし、了解は得られなかった・・・」辻は落胆を通り越した冷ややかな眼差しで佐藤をみつめた。「今日、区隊長が帰っての報告を、そのまま、お前に伝える ── お話は承ったが、それはどうぞ止めていただきたい、わたしも軍人の妻です、故陸軍少佐佐藤嘉平次の妻です。軍人の妻として、母親として、子供に仲間を陥れるような仕事は、して貰いたくない、絶対にお断るする・・・そういうお言葉だった・・・」
佐藤は身体を硬直させたまま、ただじっと中隊長に瞳を注いでいた。うつろのような瞳だった。
辻はつづけた。
「中隊長は、その報告を聞いて、涙がこぼれた。これこそが軍人精神を支えるものだと思った・・・、佐藤は、いいお母さんを持ったものだなあ・・・!”」讃められても、この場合どうしようもなかった。むしろ中隊長に讃められたことで、佐藤は全身を針で突っつかれているような思いだった。
「それでだな・・・」と辻はいくらか事務的な口調になっていた。「佐藤は明日の日曜日 ── 中隊長の希望としては ── 家へ行ってもらいたい。お母さんに会って、よくこの間の事情とお前の気持とを、よく話してもらいたい。その上でだな、今までのことを継続してやるとも、やめるとも、それはお前の気持に委す。たとえ、やめるようなことになっても、中隊長はお前を軽蔑しないし、何とも思やしない。いままで通りだ。ただ、いままでのことは、オレとお前だけのことだから、何もなかったことにする・・・そうすれば、誰も傷つかずにすむ・・・分かったな」
「ハイ、分かりました。では、明日、佐藤は家へ行って参ります」
「そうしてくれ、お母さんによろしくな・・・中隊長が失礼をお詫びしていたと、そうお伝えしてくれ」
佐藤が扉へ手をかけようとすると、
「ああ、それからな・・・」と辻はまた呼び止めた。「隣りの中隊の佐々木、武藤候補生らに明日いかったら遊びに来んか、とそういってくれ」
何の御用ですか、といった表情を佐藤がした。
「いや」辻は手をふった。「何でもない、ただ若い連中と雑談をしたいだけだ」
2021/11/23
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